再掲 「いつ夕」解説 25

成長Ⅱ

 

 

前回からの続きです。

 

個人の成長過程が、自己中心的から、共生、調和へ、と、すると、

 

国家の成長過程はどうなのでしょう。

 

俺の感覚では、縄文文明は、共生、調和の社会だったのではないか、

 

と、ゆー感じですが、これは、理想、願望を多々、含んでいますので、

 

事実は分かりません。それに、暮らしについては、

 

現代のように、スイッチ一つで電気がつき、蛇口を捻れば水が出て、

 

エアコン、冷蔵庫、洗濯機、単車、自動車…、文明の利器といったモノが

 

ある暮らしの方が好ましいです。(無ければ何とかしますが)

 

何がどうなったかは、よく分かりませんが、

 

外部からの、大陸からの脅威、外圧が主な原因なのでしょう、

 

大陸を模倣して中央集権制度へと移行します。

 

個人の成長過程で、他者を知ることによって自己が意識されるように、

 

大陸、他国という存在によって、日本という自国が意識される。

 

個人の発達が親という強大な存在を模倣することから始まるように、

 

日本も強大な大陸文明を模倣したのではないのでしょうか。

 

まあ、縄文文明があったわけですから、この喩えでいうと、

 

穏やかな家族関係で和気藹々暮らしていたのが、

 

外へ遊びにゆくようになって、年上のガキ大将の脅威から、

 

ガキ大将を模倣するって感じが適切ですかね。

 

憧れと反発。子分になる者もいれば、自らが別グループをつくる者、

 

独自性、独立性を意識して一匹狼となる者、様々ですね。

 

憧れのスターの髪型やファッション、言動を真似することにも通じますね。

 

日本は、模倣をしましたが、やはり、縄文文明があったからでしょう、

 

独自性、独立性の道を選んだようです。

 

縄文文明という〝家風〟があったんですね。

 

長い (一万年!?) 縄文文明の中で、特殊で恵まれた環境の中で、

 

独自の思想、文化、行動原理が育まれていたのでしょう。

 

「三つ子の魂百まで」という言葉がありますが、

 

まさに、日本にとっての三つ子の魂は縄文文明にあるのではないかと思います。

 

日本人である、俺が、〝共生、調和〟を提案するのも、

 

縄文文明の行動原理からきているのかもしれません。

 

大陸文明の権威や文化的優位などを利用して、

 

素朴な縄文人たちを手なずけ?、中央集権制に移行してみたものの、

 

大陸のような皇帝独裁支配体制は難しかったようです。

 

すぐに、藤原氏のような貴族に権力を握られ、

 

(将門、純友は早すぎたんですかねえ)

 

平家、源氏といった武家に、着々と力を蓄えていった地方大名達に、

 

挙句の果てには、出生の怪しい秀吉に権力を握られてしまう。

 

(信長がどこまで考えていたかは分かりませんが、もしも、信長だったら、

 

天皇を廃したのでしょうか。自らが天皇帝(仮)という天皇を超える存在と

 

なったのでしょうか。結局、信長は逝き、天皇は権威として残りました。

 

秀吉も、家康も、天皇を廃し (せ?) ませんでした。

 

縄文人(個人で云えば幼児期)にとって、それくらい衝撃だったのでしょう。

 

廃せない何かトラウマ的なものを感じます。呪いのような、祟りのような。

 

いったい、何があったんでしょうかね。大変な屈辱があったのでしょうか。

 

よほど傷ついたのでしょうね。個人でも、特に親から受けたトラウマは後々、

 

ずーーっと残るようですし、心理に影響を及ぼすみたいです。

 

傷は深いのでしょう。

 

現代人にとっても、直視できない、

 

触れては、語ってはいけない、感覚があるくらいですから。しかし、

 

自己分析にトラウマは避けては通れないように、天皇を避けては、

 

日本の分析はできません。天皇を思想の一つとして考えられるかどうか、

 

畏れずに、ちゃんと歴史として、事実として捉えられるかどうか、

 

これが、自己確立に重要なポイントだと俺は思います。

 

俺なりに分析すると、俺自身は割り切れているのですが、

 

それを必要としている、拠り所、支えにしている、信じている人に、

 

ワルイ、傷つけたくない、と、いう感覚。それを言っちゃあ、身も蓋も無くなって

 

しまうんじゃあないか、王様は裸だ!と、言ってしまってよいのだろうか、

 

と、ゆー遠慮ですかねえ。)

 

 

江戸時代には町人、商人が力を持ち、そのまま放っておいてくれたなら、

 

緩やかに身分制度が曖昧になって、日本的民主制になったかも

 

しれませんが、欧米列強の脅威が迫ります。

 

以前、大陸文明を模倣したように、西洋文明を模倣して、

 

立憲君主制。天皇を君主として憲法を定めます。

 

明治時代には下級武士出身者、庶民たちが権力を握れるようになりました。

 

戦争に敗れ、現在は国民主権ということで、タテマエでは、名目上では、

 

我々、国民一人一人に権力が分散されていることになっています。

 

こうやって、見てみると、

 

権力が上から下へと徐々に下がり広がっていっているように思えます。

 

権力が自己中心的 (中央集権制) から、国民一人一人 (共生、調和) へ、

 

と、移行しているようにも見えます。

 

個人が自己中心的から、共生、調和へと成長するように、

 

国家も成長しているのでしょうか。

 

(子供の頃は、我儘で自分本位、暴力的だった者が、

 

大人になってから会ってみると、優しく、思いやりがあり、気遣いのできる

 

素敵な紳士になっていて、(そのまんまな者もいますが)

 

とても嬉しくて、思わず、「大人になったなあ」と、言ってしまいます。

 

これも、三つ子の魂が、少年期に何らかの圧力で歪められ、

 

成長と共に本来の魂が現れたと謂えるのかもしれません。

 

成長なのか原点回帰なのか、根本は変わるのか変わらないのか、

 

よく分かりませんね。分からないから思索し工夫するんですよね)

 

一人一人が自立し、「思いやり」をもって、共生、調和の社会を築く。

 

そんな国家へ成長してゆけるのでしょうか。

 

それは、自分次第なのでしょう。

 

俺一人では、どうにもなりませんが、

 

俺が示さねば何も始まりません。

 

〝個人の成長が、社会の、国家の成長となる〟

 

その思想のもと、記したのが、

 

「いつか見た夕焼け」 なのです。 (*^_^*)

 


いつか見た夕焼け  三王一好

 

 

日日好日

 

 

そーですねー。

 

日本人の「依存性」、「服従性」と云えば、いーのでしょうか。

 

できてしまった体制、オカミ(権力者)に服従してしまう傾向、気質。

 

自らが考え、自らが決めて行動することが苦手、とゆーか、

 

そのことすらも、「してはならない」と思ってしまう、

 

強迫観念症的な感じがします。

 

これは、欧米列強の侵略による強制開国、

 

戦時中の統制支配、敗戦ショック、戦後教育、

 

と、近代日本にも原因を求められるのでしょうが、

 

俺は、もっと根深いものを感じています。

 

それは、日本が和の国だから、

 

「和を以て貴しとなす」、「和を乱すことを嫌う」から、

 

と、ゆー日本人の行動原理が原因、

 

と、ゆーのではなく、(それもあるのでしょうが)

 

まあ、もともと〝和〟の文明を築いていたのだとは思いますが、

 

その〝和〟の精神性を利用され支配されたのではないか、

 

〝和〟の定義、意味を、支配者に都合のいい、

 

「自らの意見を言わないこと」、「支配者に服従すること」

 

と、云った意味にすり替えられたのではないか、と思うのです。

 

誰しも依存性はあるかと思いますが、無暗に闇雲に依存するのではなく、

 

その理由を自らが考えて戴きたいのです。

 

 

近頃で云えば、虚露名騒動における、自粛、惑沈、魔巣苦が、そうでしょう。

 

多くの人が、「和を乱すまい」と行動したのだと思われますが、

 

結果、支配者(銭儲け)に利用されただけだったという。

 

「出るな」と言われれば出ない。「打て」と言われれば打つ、

 

「しろ」と言われればする。

 

その根拠、その効果、その弊害、その合理性を、

 

もっと云えば、支配者(銭儲け)の企みを自らが考えもせず従ってしまう。

 

既に我々は、政治家が嘘をつくことも、責任をとらないことも、

 

データを改竄隠蔽することも、御用学者がいることも、

 

マスコミが偏向報道することも知っているはずです。

 

銭儲けの為ならば他者を苦しめる(詐欺搾取窃盗強盗薬害殺害)者がいる、

 

そんな者たちが権力を握ろうとする、権力の座にのさばっていることを、

 

マトモじゃない者は、我々の「マトモ」さ、真面目さをも利用してくることを、

 

知っているはずです。

 

なのに、なぜ。

 

虚露名騒動の初め、俺は楽観視していました。

 

俺が気づいていることくらい多くの人が気づいているだろう、と。

 

得体の知れない惑沈を打つ者などいないであろう、と。

 

しかし、現状はコレですものねえ。ガックリです。

 

が、それならば、氣づいてもらえるよう伝えてゆくことが大切だ、と。

 

と、ゆーことで、この記事たちや、「いつか見た夕焼け」が、

 

氣づいて築いてゆく〝きっかけ〟になってくれたなら幸いです。

 

 

特に、俺の世代の人たちに呼びかけたい。

 

俺たちは、「宇宙戦艦ヤマト」、「銀河鉄道999」、

 

そして、「キャプテンハーロック」を観て育った世代ではないのか、と。

 

古代なら、鉄郎なら、ハーロックなら、

 

どうするだろうか、と。

 

 

と、もう一つ云いたいです。

 

政治家(屋)とゆーカタチをとらなくても、

 

とらないことが好いのに、何故、そのカタチをとるのか、と。

 

それは、「権力」とゆーカタチに幻想に囚われているのではないのか、と。

 

(俺の母方の祖父は「政治家(屋)には関わるな」と言っていたそうです。

 

きっと俺の祖父は、その危うさ、その「マトモ」でなさ、

 

「権力」への幻想、欲望のおぞましさを観透かしていたのでしょう。

 

政治は大切なのですが、自らが政治家(屋)と関わることはヤバイ。

 

その権力志向がヤバイ、危ういのです。安直なのです。

 

「急がば回れ」なのです。周りから働きかけてゆくのです)

 

俺の考えに似た人もいますが、

 

俺の考えに似たことを訴えている人もいますが、

 

何故、政治家(屋)になろうとするのか、と。

 

そこにゆくのは、そのカタチにわざわざ嵌ってしまうのは、

 

本末転倒なのではないのか、と。

 

そのカタチ(現政治)に嵌らないからこそ、

 

改革、革命ができるのではないか、と、俺は思います。

 

(若い人たちは、それも経験でしょうが、いー大人がそれに嵌るのは、

 

如何なものか、仕組みを理解しているはずなのに、なぜ?

 

と、思ってしまいます。

 

俺の友は個人として立ち向かっています。

 

そして、政治家(屋)は何の役にも立っていません。(少しはあるのかな?)

 

と、ゆーか、スポンサー付きの者が遠慮して動くよりも、

 

自立した者が自らの意志で行動する方が動きやすい働きやすいでしょう。

 

時間、労力も掛かるし、面倒くさい。

 

しんどいとは思いますが、氣づいた者は築かざるを得ない。

 

義を見てせざるは勇無きなり、でしょう)

 

現政治は所詮、数(銭)の論理。

 

俺が想っているのは質、思想の論理。

 

そして、その質、思想を底上げ、底広げしてゆきたいのです。

 

これは権力(政治、銭)によるものではなく、

 

市井、姿勢によるものである、あってもらいたいのです。

 

だから、俺は小説「いつか見た夕焼け」というカタチ、手法で、

 

(「いつか見た夕焼け」は無料で読めます)

 

革命を起こそうとしているのです。

 

そりゃあ、色んなカタチ、様々な方面から揺らすことが好いとは思いますが、

 

さあ、どうなんでしょうね。

 

これも過渡期か。

 

成長過程か。

 

ヤキモキしながらも、

 

氣づいた者は築いてゆく。それで、それが好いのでしょう。

 

俺は調和の社会、世界が実現すると信じています。(これも依存性)

 

その根拠は、理由は?

 

それを俺が望んでいるからかなあ。

 

俺は『存在』の一部なのですから。

 

 

俺の想う『存在』については下掲の記事を御参照ください。↓

 

 

 

暁をまちながら

 

 

そして、

 

卯月をまちながら

 

☆☆☆☆☆