繋風
ぐっすり眠れた。
何やら体が獣臭い。
昨夜のホルモンの匂いだろう。
雨が降ってるのかと思いきや、降っていない。
これはラッキー!小岩井にゆこう。
少し、タイミングをずらした方がいいだろう、
と、いうことで繋(つなぎ)温泉へ馬首を向ける。
吹く風が湖畔の桜を舞わせている。
幸ちゃんとも、また暫く会えないんだなあ…
「 舞桜 千里の友よ 繋 風 」 一好
義家が馬を繋いだから、この名前がついた、というが、
曾…祖父さん、どんだけ影響力があったんじゃい、と思う。
この地でよい繋がりができたのも、ご先祖様のご加護であろうか。
清温荘の湯に入る。網張とは違い透明な湯である。
湯船に風が運んできた桜が浮かび風流だ。
ご先祖様達もここの湯に入ったのだろうか。
千年の時に思いを馳せる。
義家の子孫となるとドエライ数になるんだろうなあ。
この世は親戚だらけか。
さっぱりしたのだが獣臭は服に染み込んでしまったようだ。
この地はご先祖様ゆかりの地でもあるが、
何やら気恥ずかしい思い出の地でもある。
今でもそうなのだが、随分、俺は思いやりに欠けていたんだなあ、
と、思う。
幸せ気づカズ (^_^) 困らせていた、
とは、俺のことだ。
今度こそは、大丈夫さ、
と、祈るとともに自分を信じたい。
父が逝ってから、先祖からの繋がりをよく考えるようになった。
「一所懸命」と所領に執着、
権力や地位、金、モノ、名誉に執着していたであろう
武士であった先祖達も逝ってしまえば執着もなく、
ただただ子孫の繁栄、幸せ、
もっと云えば、皆の幸せを望んでいるのではないかと思う。
父が逝く前に、
「葬式、戒名、墓などはいらん」
と、言っていた(母もそうであった)のは、
執着心が薄れていたからであろう。
生きていて、そうであれば死んだなら
尚更、執着心は薄れる(無くなる)のではなかろうか。
「いつ夕」にも、好美さんが、
「逝った者が残された者に望むこと」
として、
「幸せを望む」
と、語る場面があるが、
俺も同じだ。
俺が死んで、もし意識だけの存在となったなら、
「皆の幸せ」
を望むだろう。(生きている今もだが)
自分が死後、何を望むか? 想像してみれば、
皆、同じ望みになるんじゃないかなあ、
と、思うが、どうだろう?
想像して、俺と同じであれば、
想像を実現させるには、どうすればいいのだろう、
今、自分ができることは何だろう、
と、想像してみてはどうだろう。
( 何だか、ジョン・レノンの「イマジン」みたい )
俺が、想像したことは、「いつか見た夕焼け」 に記してある。
参考になれば、想像する 「きっかけ」 になれば、幸いだ。
今、俺が生きている背景には、
脈々と続く生命のバトンタッチ、繋がりがあり、
子孫達の、皆の幸せを望む、親や先祖達の望みがあるわけで、
別に俺は子孫を残そうとは思わないが、
(執着が薄過ぎるのも考えものかな?)
せっかく戴いたこの生命、人生は
十全に、そして、幸せに生きたいと思う。
それが、親や先祖達への最高の供養だと俺は信じている。
「散る桜 千年の時 繋 風 」 一好
日日好日
繋温泉からの「繋風」。
この時は、義家さんから先祖への想いを馳せていたのですが、
後に京都へ訪れ、「六孫王神社」に祀られている経基さんの
「龍になって子孫の繁栄を祈る」
と云う言葉を知り、本文に記述したことに繋がったなあ、と。
(経基→満仲→頼信→頼義→義家→義国→義重→義範…………三王宗全
……順一→光一→義雄→一好)
六孫王の経基さん、神様の名を名乗った八幡太郎の義家さん、
神様(三王権現)の名を姓とした三王宗全さん、
心の師匠(俺の中では神様)のBARの名を、
自らのBARの名(Kool)にした俺。
自らが尊び敬い感謝するものの名を名乗る、受け継ぐ、自らに繋げる。
このことにも、繋がりと親しみを感じます。
これは、血の繋がりだけではなくて、
この地球に宇宙に生まれてこられた者同士の繋がり、
と、云っても好いかと思います。
地球に生まれてこられて、今、生きていられる者同士、
幸せに気づいた、気づけた同志、
ともに幸せな社会を、世界を、気づいて築いてゆきましょうよ。
争うことはない。
愛し慈しみ尊び敬いあい、支え援け与え施し分かちあい、
働き(ハタ楽)あい、しあわせ(仕合わせ)あい、
楽しく幸せに暮らして、生きてゆきましょうよ。
「いつか見た夕焼け」に描かれているような世界を実現させましょうよ。
もう、その時は来ている、と、俺は思います。
あとは、気づいて築いてゆくだけなのです。
多くの人が気づいてくれますように。
その〝きっかけ〟に、この記事たちや、
「いつ夕」がなってくれたなら幸いです。
平和な世界でありますように。
暁をまちながら
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