西部劇に見る歴史の変換を求めて | 絵画的世界の窓

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ぼんやりと眺めていた西部劇にジョン・ウエインが出ていることは、さすがにわかっていたが、それ以上のことは何一つ知らないまま、途中居眠りしたり、トイレに立ったりしながら、何となく観終わったその映画は「捜索者」というタイトルで、ジョン・フォード監督の西部劇の中でも評価の割れる作品ながら高い支持を得ているらしいと、その後知った。


アメリカの西部開拓史における先住民族との血で血を洗う争いというバックボーンは随所に見せつけられるものの、そんな中にあっていやでも両者は混ざり合い、妥協を重ねながらた交易、交換の歴史も刻まれていく訳で、当然血も混ざる。


つまり双方とももはや一歩も引けない民族生き残りの使命がかかっている訳で、この地で生きていかなければならず、帰る路はすでに閉ざされている。そうした緊迫感はひしひしと伝わる。


が、この映画、原動力は男なんだなと、あるときふと思ったりして、正気に帰る瞬間がある。

男の持つ好戦性というか傲慢さが結局歴史の機動力で、これは男でなけばあり得なかった物語りだと気づく。

全編流れているムードとも呼ぶべき暴力性こそこの映画の主流なのではないか?

侵略、殺戮、それにまつわる云々カンヌンそれはメカニズムとしての戦争なのではなく、男の全ては資質に起因するのではないか?

女、子どもは、だからいつも彼ら野蛮さの犠牲となり無惨な屍を築かされるのだ。いま現在の世界の有り様に目を向けても、戦争を決断する集団は男以外あり得ないではないか。


いちばん最初に頭の皮を剥いだのは誰か?

決して女でも、まして子どもではないはずだ。

争いを引き起こし、そこに答えを見出そうとする道筋を設ける手立ての過程で、力ずくの発想に陥いる思考の飛躍を産む資質こそ問われなければならない、男と女の歴史の分岐点を強烈に感じるいまだな。