江戸で・・・、もっと言えば、江戸の性的な切り口、
ジェンダーで企画展をしたいと思っているので、
まあ、例えばタイモン・スクリーチ著、高山宏訳「春画 片手で読む江戸の絵」(講談社学術文庫)をぺらぺらしている。
ふんだんに図版はが出てくるので、
見ているとやはり興奮して来る(笑)。
春画をポルノグラフィーとして捉え直した本だから、
なおさら。
この本に浸ったせいか、
なんだかぼくのジェンダーも心なしか揺れる。
男と女の入れ替わり。
もっと自分の性を見つめなおした方が、
人間、豊かになるのではないか、
そんなことを考えてしまう。
まあ、ぼくは男で、
だから男として育てられた訳だけど。
しかも、けっこう男を仕込まれたように思うけど、
案外そうでもないのかもしれない。
仕込まれたには仕込まれたけど、
母親との関係で、
その揺り戻しがあるような気はする。
男でも、男的なものに嫌気がさして来るのは、
男なら誰でも経験があると思う。
女と付き合うと、そのことは骨身にしみてわかるはずだ。
だから両方の性を行ったり来たりする方が、
きっと楽だ。
でもその行ったり来たりは、
おそらくぼくらの日常で実は、
頻繁に行われていることではないか。
問題はだから、
その行ったり来たりで気づいた息苦しさを解消する方法を
持つことが出来ない、或いは持たせまいとする、そのときどきの
社会の頑迷さの強度にあるのではないか。
その意味で江戸は、いまよりもっと開けていたような気もするけど。
Galleryころころ
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