人は皆違っていて、それぞれに個性があり、キャラクターもあったりする。
社会の規範は時代によって緩かったり厳しくなったりもするし、置かれた環境によっては違ったりする。
社会の環境と自分の身の回りの環境にズレが生じる場合もある。
同じことをやっても、自分の周りの環境ではOKだったけれど、違うところに行ったらダメだったということもある。
また、同じことをしてもAさんだったら良くて、Bさんだとダメ出しされるということもある。
キャラクターと周りの環境の2つの指標によって対応は色々と複雑になってくる。
ただ、違和感を持ちながらも、キャタクターと称されるもので許されていたこともあったりする。
「あの人はそういう人だからしょうがないよ」みたいな感じで。
でも、本当に「しょうがない」で許されるものなのだろうか。
自分自身も「自分はそういう人間だから」とキャラクターのせいにしてしまい開き直ってしまう。
キャラクターは自分と違うものではないし、もし、自分と違うキャラクターを演じているのであれば、演じたキャラクターによって人を傷つけることになれば、それは「故意」ということになるので、さらに悪質だ。
また、自分も含めて周囲は「あの人はそういう人だから」として、改心させることを諦めてしまっていたかもしれない。
そうして、わがままな独裁的権力を振るう人物が、どんどんつけ上がり、多くの人を傷つけるような事態になってしまう。
違和感があっても、それを放置してしまう。
いや、指摘しようとして、報復が待っているから恐れをなしてしまう。
国を導くような独裁者だけでなく、企業や業界内部、あるいはもっち小さな組織にも、プチ独裁者は多く存在している。
そうした人物の振る舞いの全てが否定されるようなことではないにしても、多くの人の心を傷つけてしまった罪は大きい。
だが、まだこの社会では、組織の上に立つには、いかに多くの人を踏み台にし、いかに多くの人を傷つけたか、といったことが幅を利かせてしまっている。
キャラクターだからで許されてしまい、そのまま頂点に登ってしまった人たちが、これからどんどんそのツケを払わされていく。
そのツケに利息が付いていると、堕ちる時には、かなり悲惨なことになるかもしれないが、現時点ではそうはなっていないどころか、指弾されて一時期は影に引っ込んでも、また復活してしまうことも多かったりする。
何とも理不尽なことではあるが、そうした現実がある。
これからできることは、違和感を覚えたら、キャラクターだからと許してしまわないことなんだろう。