色々な経営手法や経営用語は生み出されている。
それらは学者では厳密な定義や手法があり、またその背景となる部分、さらにその経営手法に至る哲学もあるはずだ。
だが、それを受け取る方はどうだろうか。
都合よくつまみ食いのように受け取ろうとする。
また、そうしたニーズに応えるためなのか、経済雑誌や新聞などでも、「誰でも理解できる」と銘打った記事を掲載する。
日本経済新聞ですら、時に誤った使い方をしている。
今朝(12/7)の日経新聞でも、「経済教室」の記事で、東大教授から、日経新聞自体がジョブ型労働の定義について誤った使い方をしていると指摘し、反省を求めたい、とまで書かれていた。
新しい経営手法を流行らせれば、それだけ講演やセミナーなどで色々と稼げる手段が生まれてくるからなのだろうか。
日経新聞に限らず、経済誌と呼ばれる媒体も、やたらと新しい経営手法を煽る傾向がある。
煽るにしても、誤った使い方、安直な使い方で、いかにもなんでも解決できるかのように錯覚させるのは、罪と言っても良いんじゃないか。
それに踊らされる経営者もどうかと思う。
あれだこれだと振り回される従業員からすれば迷惑な話でしかない。
ただ、新しい経営手法の全てがダメではなく、いや、多くの経営手法は、それを提唱した学者の前提条件や正しいやり方に従えば、それなりに効果が出るのかもしれない。
しかし、前提条件がいくつも課せられている時、それに合致する会社がどれだけあるだろうか。
それらを無視して、経営者が飛び付こうとするし、飛び付こうとする者を無視できないと、一見すると簡単そうな見せ方をして人を集めるマスコミもいる。
問題は、本当に危機が起きている時に、何度も新しい手法に振り回されて従業員がうんざりしていると、本当に多くに有効な手法にも取り組むことをしなくなってしまう恐れがある。
新しい手法が新しい状況を作り出すこともないとは言えないが、むしろ新たな状況が新たな手法を生み出す苗床となることが圧倒的に多いはずだ。
まずは、自分たちの置かれている状況をちゃんと把握するところからなんじゃないか。
業界自体が大きく揺れているところだってある。
特に今回のコロナ禍においては、何もないということはなく、良し悪しの振れ幅があるけれど、変わっていることは確実だ。
そうした状況認識を組織内部で統一させることが先決なんだろう。
その上で、新しい手法は取り得るのか、ということなんじゃないだろうか。
なんだか、当たり前のことを言っているようにも思えるのだが、どうも見聞きしていると、そうではない会社がかなり多いようにも思う。