頓珍漢なことに対応することが素晴らしい、という変な風潮。 | こんちゃんの「社会世相を斬って、見てみる」

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上に立つ人にとって、自分の思いを実行してくれる人は重宝する。

 

 

時に無理難題なことであっても、なんとかしてくれるような部下だと頼もしい。

 

 

部下の立場からすれば、上の立場の人に認めてもらい、少しでも自分のポジションを上げたいと思う。

 

 

そうして上の人間の要望に応え続けていることで自分のポジションが維持されると、今度はヘマを犯したり、反抗的な態度をとって干されたくない、と言う気持ちにもなってくる。

 

 

ただ、それだけでもないような気がする。

 

 

難問に取り組み、それを解決すること自体に快感を覚える部分もある。

 

 

難問を解決すれば自分の頭の良さ、賢さを証明できるような気がしてくる。

 

 

その難問が、上からの無理難題であっても、同じことかもしれない。

 

 

時にどうにも理屈に合わないこと、下手すれば道徳とか規範からするとズレているようなことであっても、それをなんとか解決することに自分の力量を見出すこともあるかもしれない。

 

 

上の人間に対する忖度は、自分のポジションを維持するためという意識と、無理難題を解決するという純粋な意欲がミックスされたものなのではと思ったりする。

 

 

また、そうやって無理難題も解決し、清濁併せ呑むことで、人の上に立つ幅の広い人間になれるのだと思うのかもしれない。

 

 

日産の元会長、元役員に対する役員報酬の問題の裁判が行われている。

 

 

司法取引に応じたとされる元秘書室長の方は、問題だと気づいていながらも、そこで反抗すれば飛ばされるという思いがあったそうだ。

 

 

また、そうした問題となるようなことの関与もある一方で、経営の素晴らしいことにも関与することで、清濁併せ呑むものだと思ったそうだ。

 

 

威厳があって、成果もあって、それでいて高圧的で、常に緊張を強いられるような人の前に立った時、おかしいことをおかしいとどこまで人は言えるのだろうか。

 

 

端から見れば、なんであんなおかしな要求に精を出して応えようとするのだろうかと首を傾げることも多いけれど、いざ自分がその立場に立った時、果たしてノーと言えるだろうか。

 

 

もちろん能力的にそれに応えられない面もあるかもしれない。

 

 

でも、なんとかすることで自分の能力を証明し、評価もされるとなれば頑張ってしまうかもしれない。

 

 

上に立っている人間は、必ずしも能力的に優れている人がなっているわけではない。

 

 

むしろ、自分の低能さを晒さないために、ハッタリとか強引な態度で臨んでいることが多いような気がする。

 

 

たとえ、間違ったこと、頓珍漢なことを言っていたとしても、それが当然だみたいな物言いをすれば、その場はなんとなくそんなものかも、と思ってしまい、それがどんどん優秀な下の者によって遂行されてしまう。

 

 

また、あまりに頓珍漢なことを言っていた場合でも、下の者は、それを覆すために、理論構築だけでなく、話の持って行き方とか、なだめ方とかにいろいろと頭を巡らせる。

 

 

はっきり言って、組織全体から見れば時間と能力の無駄でしかない。

 

 

上の立場の人間の頓珍漢なことへの対応ぐらい無駄なことはない。

 

 

でも、巷を見渡してみると、むしろそんなことばかりだったりする。

 

 

頓珍漢なことへ応えることが優秀さの表れなんだ、と言ったおかしな風潮すらある。

 

 

ただ、それに抗するほどに人は強くない。

 

 

どうすればいいのだろうか。