神経症的反発が差別を生んでいる。 | こんちゃんの「社会世相を斬って、見てみる」

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勉強をしなければいけないなあ、と自分で思っている時に、「勉強しなさない!」と先に言われてしまうと、逆に反発したくなってくる。

 

 

本当は仲良くなりたいのに、ちょっとした言葉に行き違いで、反目し合う、なんてこともある。

 

 

一旦、感情がもつれると、その糸をほどいて行くのはなかなか難しい。

 

 

ほどくどころか、感情的な反発が、行ったり来たりとなり、その加速度は増し、止まらなくなってくる。

 

 

本来こちらに非があり、謝罪が当然のことであっても、最初のところでボタンの掛け違いが起きると、逆ギレを起こしてしまうことにもなる。

 

 

逆ギレが起きると、本来こちらが謝らなければならないことであっても、「そもそも、そっちだって悪いんだぞ!」みたいな言い掛かりをつけ始めたりする。

 

 

下手すると、「そもそも、そんなことはなかったんだ」と居直り、謝罪どころか、居丈高になったりする。

 

 

まだそれでも、自分が直接に何かをやらかしてしまったなら罪悪感がある。

 

 

だが、自分は直接には関与していなくて、自分の所属する集団が責められると、理屈では悪いことをしたと思っていても、感情として反発したくなってくる。

 

 

自分の所属する集団と自分との同一化の度合いが高いほど、自分の所属する集団が責められた時、自分自身が著しく傷つけられた、という感情を持つかもしれない。

 

 

自分の住んでいる町や、自分の会社について、普段は自分でも「どうしようもないな」とどこかで思っていたとしても、いざ、外からディスられたり、責められたりしたら、なぜか反発したくもなる。

 

 

責められている事が理屈としては極めて真っ当で正しいことであるにも関わらず、そうした反発心がどこかに出てきてしまうのかもしれない。

 

 

おそらく、自分が傷つけられたり、責任が覆い被さってくることへの恐怖心から自分を守ろうとしての反応なのだろう。

 

 

自分を守ろうとする手段は色々とあり、単に逆ギレするだけでなく、一見すると理性的で、それなりに理論武装をしているかのような振る舞いにでることもある。

 

 

でも、少し調べてみれば、全然いい加減で、ある種の捏造も加わっていたりする。

 

 

それでも、自分を守るためなら手段を選ばないので、一生懸命、自分は悪くない、むしろ善いことをしている、と盛んに喧伝し始める。

 

 

そうしたプロパガンダが功を奏することもあったりするから、またなんとも厄介だ。

 

 

差別的言動を繰り返す人が政治家にもいたりする。

 

 

先般来、北方領土をめぐる暴言で問題になっている国会議員は、もともと差別的な言動も繰り返していた。

 

 

そうした発言は、当該国会議員だけでなく、他の政治家にも見られる言動だったりする。

 

 

そこにあるのは、理念といったものではなく、自分が傷つくかもしれないという恐れからくる神経症的な言動の表れ、と捉えた方がいいのかもしれない。

 

 

神経症の症状による言動に対しては、理屈では言い含めても難しいのではないか。

 

 

それでは、どうすればいいのか、という案がなかなか見つからないのだけれど、この神経症的な言動が、一定の規模になると収拾がつかなくなり大変なことになる。

 

 

そうした神経症的な問題が、ドイツでナチスが台頭する要因にもなっている。

 

 

果たして自分がそうした神経症に感染されない、と言い切れるだろうか。

 

 

そんなことも含めて、危機感があったりする。

 

 

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