ライフストーリーは一つではないことに広告は気付こう。 | こんちゃんの「社会世相を斬って、見てみる」

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都内を走る在来線の車両は、広告がどんどん動画になってきている。

 

 

山手線でも地下鉄の銀座線でも動画が中心になってきている。

 

 

特に山手線の新型車両では昔からの中吊り広告は少ししかない。

 

 

しかも、最近は広告ジャックと呼ばれるように、1両丸ごと一つの企業の宣伝で埋め尽くされることもある。

 

 

普通に乗っているときならまだしも、ちょっと疲れているときにつり革につかまりながら同じ映像を繰り返し見せられるのはかなり苦痛だったりもする。

 

 

まあ、そうは言ってもなんとなく見てしまうものなのだが。

 

 

そんな広告映像で、不動産とか保険など、商品としてロングスパンなものの広告も流れる。

 

 

こうした商品の広告の際に、若い主人公がどこかで若い異性と出会い、結婚し、子供ができ、そしてその子供が結婚し、自分に孫ができる、みたいなライフストーリーをショートカットで見せていくような動画が流される。

 

 

誰もがそうしたライフストーリーを辿るという前提に立って描かれているのだろうが、そこに沿っていない人(自分もその1人だが)にとってはそうした広告は苦痛だったりする。

 

 

ただでさえ広告動画を見ることさえ苦痛なときにはどこに視線を逸らせばいいのかと思ってしまう。

 

 

しかし、そんなときに限って何度もその動画は繰り返される。

 

 

果たして、そうしたライフストーリーを進んでいる人、描いている人がどれだけの割合を占めているのだろうか?

 

 

確かにまだマジョリティかもしれないが、以前ほとではない。

 

 

結婚年齢も上がり、生涯未婚率も上がっている。

 

 

LGBTなど多様性も認められるようになってきている。

 

 

そうした中で、旧態然としたライフストーリーを見せる広告は、いくら見せ方がかつての広告より洗練されていたとしても、発想自体は貧困だし、そうした人だけをいまだにマーケティングの対象としているようでは大丈夫かと思ってしまう。

 

 

確かに保険とか不動産といったロングスパンで付き合う商品についてはその特性を表すため、1人の人間の人生をコンパクトに見せていくということもあるのかもしれないが、今やオルタナティブな生き方がどんどん出てきている中で、もっと別の見せ方というものもあるはずだ。

 

 

また、そうした人たちに向けたサービスなり商品なりを提供するということがもっとあってもいいと思う。

 

 

新橋駅に一人焼肉専門店がオープンしている。

 

 

ちょっと前であれば1人で焼肉はなかなか考えられなかったし、焼肉屋で「一人焼肉」をすることはかなり勇気のいる行為として挙げられていた。

 

 

だが、そうしたニーズはそれなりにあった。

 

 

一部の焼肉屋ではカウンターを設けて、1人焼肉ができるコーナーを設けていたりもした。

 

 

そして、専門店もできた。

 

 

そういう時代になってきている。

 

 

そんな中で、かつてのマジョリティに向けた広告は、逆に不快感を与えかねないと思うのだが。

 

 

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