昭和が終わった日 | 虎野 門次郎の晴れ時ドキブログ

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♪地球上の上に朝が来る その裏側は夜だろう

初めまして虎野 門次郎です。チープで拙いブログですがよろしく哀愁です。

うだうだミュージック

今年 平成31年4月に新元号が公表され、5月1日から施行されます。


今から30年前の1989年1月7日、昭和天皇が崩御されました。その日、当時勤めていた会社も休みに成りました。テレビ局も、ほとんど全て特別番組を放送していました(唯一テレビ東京だけを除いて)笑っていいともをはじめとして、お笑い番組が軒並み放送休止に成りました。そんな中、通常の放送とは内容変更したものの、当時生放送のレギュラー番組を持っていた萩本欽一さんだけがテレビカメラの前に立ち、《こう言う時に笑いの番組が、放送休止に成ってしまうような現状を、残念に思う》と言うような事を語っていました。私はその放送を生で見ていて感動してしまい、思わずテレビ局に電話をしてしまいました。


私「欽ちゃんいますか!?」


(今思えば、恐らく危ないヤツだと思われたでしょうね😅)


局の人「萩本さんはもうお帰りになりました。明日また来られますよ。何かお伝えしましょうか?」


私「今日の放送を見て、感動しました!」


局の人「ありがとうございます」


みたいな、事がありました😊


その前年、1988年にリリースされた曲があります。星野哲郎/作詞、桜田誠一/作曲による不如帰(ほととぎす)です。この曲がリリースされた当時、昭和天皇は下血・吐血を繰り返し、危篤と小康状態を往復していたそうです。その為に曲の中にあった「血を吐く」の歌詞が引っ掛かり、この事を気遣った放送局が、同曲の放送を自粛したそうです。この曲は歌唱歌手/村上幸子さんにとっても勝負曲でしたが、そのような理由から、賞レースからも外され、紅白歌合戦への出場も果たせませんでした…。


そして1989年に急性リンパ腫を発症した村上幸子さんは、翌1990年7月23日、まだ31歳と言う若さで惜しまれつつ、逝去されました。


私はリアルタイムで存じ上げませんでしたが、とても唄がお上手で、ラジオの文化放送「走れ!歌謡曲」のDJも担当してたんですね。歌謡界にとって惜しい方を亡くしました…


命ふたつを 結ぶ糸
ちぎれて哀し 相模灘
あなた  あなた あなた
この世の次の 次の世は
私のために 下さいと
泣いて血を吐く
不如帰(ほととぎす)


添えぬ運命が すれ違う
京都の駅は 涙雨
いいえ いいえ いいえ
あなたと生きた一とせは
千万年と 同じです
夢を宝を ありがとう


思い続けて 死ぬことの
幸せ知った 逗子の海
そうよ そうよ そうよ
あなたの船の丸窓で
夜鳴く鳥が いたならば
それは私の
不如帰(ほととぎす)


不如帰 村上幸子
(1988年)


ほととぎすを【不如帰/ふじょき】と書くのは、帰りたいけど帰れないと血を吐くまで鳴き続けたと言う、故事に由来するそうな。


因みに1988年って年は、私が初めて独り暮らしを始めた年でした。


エブリバディ
健康第一🍀安全➕第一
家内安全・火の用心
いつも心に青空を
論より笑呼で
レッツゴーGO❗