安楽死について03 | maro's diary

maro's diary

私の今までの人生で経験した事やこれからの事を記録として残してシェアをしたいと思います





5. 残された人の気持ち


今いる友人や家族は皆んな元気に過ごしております
当たり前の幸せ、でも人はいつか死を迎える生き物



母の親友が病気で亡くなった時
母の一部が死んだように感じました


何でも話せて、美味しいや楽しいを共有できる
そんな人生の大切な一部が失くなってしまった


亡くなって数年経った今も
思い出しては涙を流す母を側で見ています


人の死は、他人の死にも繋がりかねない




同居している祖父母がおります
祖母が認知症で介護施設に入居してから
祖父の日課はお見舞いに行く事

歩いて電車に乗って祖母と会話するのが
祖父の楽しみでも幸せでもあり、命なんだと思う

日課が体と心の健康を保っていると感じるし
もし、どちらか1人を失ってしまったのなら
どうなってしまうのか?と、よく感じるんです



よく聞く話、老夫婦でパートナーを失った時
老いが進んだり、後を追うように亡くなる事



見えないけれど繋いでいる命の絆はある




私が死んだら、残された人はどうなるのだろう?
よく考えていた時期があった

そう考えると生きる選択しか選べなかった
それを選ぶ程に力が余っていたとも言える



私を想う人の為に「生きよう」と思える程
人の存在は大きく尊い



親より先に死んだら親不孝だと言うが
果たして本当にそうなのだろうか?


我が子が苦しみ悶えながら生きる姿より
それでも生きている事の方が重要なのだろうか?


幸せを1番に願うのなら
本人の意思の尊重があってもいいんじゃないか?
幸せのカタチは人それぞれです




私はできるなら、自殺というカタチで去るより
皆んなに見守られながら安らかに眠りたいな

でも、いつ何が起きるか分からないのが人生
突然の事故でこの世から消えてしまうかもしれない

そう考えると「感謝」「愛」を伝えられずに
残された家族は悲しみだけを抱いてしまうと
少し、不安になった




私は家族や友人に宛てた「遺書」を書いています



ありったけの、感謝と愛を綴って書き残す
自然と涙が溢れたけれど暖かい涙だったし
読み手側も暖かい涙を流してくれるはず


安楽死であれば、残された時間の今を生きられる
最後まで「ありがとう」を言える
そんな死に方はまさに理想的で私が望む死の迎え方




自殺者が増えている現実
それを黙認している国民や政治
選択肢の1つを増やす事に討論もしない



私はここで主義主張をしていきたい



「自ら死を選ぶなんて最低だよ」という人々は

生きたいと思う目的があって
何度でもやり直せる力もある
誰かを想いやっているという証でもある


ただ、死に対する考えは人それぞれです


誰もが「最善」として「」を選択したのではなく
そうするしかない
その道しか見えず、辿れないと苦渋の上の判断で
「死」というのが幸せのカタチとなった人もいる



誰かの生き方や終わり方に「良い悪い」はありません
決断を尊重して
故人を哀れむ事なく、想い悲しむ事こそ「


どこかで安らかに眠っている事を願ったり
どこかで生命として生まれている事を願ったりする


私が安楽死するのなら
そうして大切な人達に言葉で伝えていくだろうし
もう、私が死ぬ事を選んだ時に
大切な人達が存在しない世界だったとしても

今の私がここに気持ちを書き残していて
誰かにシェアできているのなら本望だ



1人で沈黙の中、ある人は苦しみ悲しみ悔いながら
自殺を選択する社会より
死を色々なカタチで迎える権利がある社会がいい




最後に



私の友人は自殺で亡くなりました
亡くなる少し前には笑って話していました

自分にできる事はなかったのか?
なぜ、彼女の苦しみに気付かなかったのか?

自分をひたすら、責めて悔やんでいました



そんな時に、巡り合わせなのでしょうか?
自殺未遂に終わった方に出会う機会があり
お話を聞かせて頂きました



死ぬのは簡単じゃない

 

この一言から沢山の感情を教えてもらいました
その方が他に、仰った言葉は印象に残りました


怖いし、不安だし、痛いし、死なない
でも
それを感じられるうちはまだ幸せなんだ

本当に死んでしまう人は
怖さや不安や痛さすらも感じられないだろう

じゃないと、死なないだろう




私も聞いた時に想像してみました
理性が働いて体が動かないだろうなって思いました



笑いながら最後まで話してくれた彼女の気持ちは
純粋に楽しいから面白いから笑っていただけで

私や家族に「死ぬほど苦しい」事を伝えなかったのは
単に死ぬつもりなんてなかったのかもしれない

何かの拍子で糸が切れたように死を迎えたのかもしれない




私は終わりの見えない罪悪感を拭う事にしました




自殺防止対策や自殺を選ぶ必要のない社会である
それが1番重要で大切です






ただ、私が思う事としては

最後を選べる自由な選択肢があってもいいと思う




死ぬ事への考え方も変わるかもしれない

今を生きる道が開けるかもしれない



誰かと愛を語らないながら最後を迎えられて

残された人と時間を過ごせる



死にたくても死ねず苦しみ悶えている人が

安らかに穏やかな空間で過ごせるのも大切だ






私はそう思って安楽死に賛成の意義を唱えます





最後まで読んで頂きありがとうございました