安楽死について02 | maro's diary

maro's diary

私の今までの人生で経験した事やこれからの事を記録として残してシェアをしたいと思います



4. 安楽死に反対する人の気持ちについて



言葉にすると難しいのだけれど

生きたいと思う人が「正しい」のか?
生きたいと思っている人の方が「善人」なのか?



私の家族は私に「生きて欲しい」と望む
それは理解できる

なぜなら、私が生きる意味にも重なる
大切な人という存在だから




死んだら終わり、死んだら何もない
死ぬ理由や意味って何?
そう考え、疑問に思う人もいるでしょう


生きていたら「良い事」も「悪い事」もある
だから生きる意味があるという意見もあるよね



本当に死にたいと思った事ありますか?


私はあります




ここからは私の経験談から
生きる事の考え方をシェアします


不登校児になり皆んなと同じことができない自分に
価値」がないと思っていました
自己否定と他人との比較のループで自信も失くしました


今の世の中のなんとなくの「当たり前」から
外れた道を歩んでいる感があったのだと思う



道を "逸れた" "間違えた" とされて
なんとなく「正しい」道や方角に軌道修正する

この道やこのルートは安全だよ、みたいなね
 


私が思う事


その道も、どんな格好で武器を装備していて
その人のメンタルやスキルによっては
危険が伴うかもしれない、安全とは言い切れない


その道を登った先の景色はどうだろう?
望んでいる景色ではないかもしれない



綺麗な景色が見えると信じて歩いていても
曇っていたり強く風が吹いていたり
海が見えると思っていたら木々が茂っていたり
歩くペースやタイミングでは
その先に見える景色だって変わるでしょう



それぞれが人生という山を登っていて
それぞれが歩く道は何通りもあるよね

見えている景色はそれぞれ違うだろうし
視線が違えば、景色が変わるのは当たり前


どの道にも、安全の保障やゴールの約束もない


何が正しいとかないよね

その人が歩いた道のりと辿りついた景色を
その人が美しいと思えたらそれでいいと思うんだ

頑張ったな、って思えたら何でもいいよね



私はその道やルートを見失って迷子になってしまい
歩き続けて同じ場所をぐるぐるしていたんだと思う

ひたすら歩いてボロボロになってしまって
その結果、多くの精神疾患を繰り返し発症した



そんな時に私は死ぬ事を考えました



大切な人が「死なないで」と望むのは
自分の歩いてきた道や見えた景色を
同じように辿って見て欲しいと願う気持ちかもしれない

途中に危ない場所があれば
導いてあげられると思っているのかもしれない



でも人によって歩き方は違うものだから
選択できる自由を与え認めて欲しいと思う



私が伝えたいのは


これ以上先に進む力も、戻る力もない
常に誰かの手を借りなければならない無力感
それに耐える事も、頼る事もできない人がいる



死にたいと思った時はそんな状態でした



それを知っているからこそ
生きなくてもいいんだよ、という道が開けたら
今置かれた状況が少し楽になるかもしれない

または、その道を知っているからこそ
別の道に進む決断もできるかもしれない



そう思って、安楽死という選択肢があっても
いいんじゃないかな?
という考えになります




続きは03を読んで下さい