不純物(ノイズ)の鑑定士

第1話:ゴースト・イン・ザ・マシン

 神保町の古い雑居ビルの一角に、私の事務所はある。

 看板には「佐野文章修復事務所」とだけ書かれている。表向きは古い古書の修復や、真贋鑑定を請け負う体面をとっているが、実態は少し違う。
 現代、インターネットを流れる文章の99%はAIによって生成、あるいは校正されている。
 メールの返信、SNSの投稿、ニュース記事、果ては恋人への愛の告白まで。AIが導き出す「最も効率的で、誰も傷つけず、論理的に正しい言葉」が世界を埋め尽くした結果、ある奇妙な問題が発生した。
 「言葉から、その人らしさが消えた」のだ。
 あまりに完璧すぎる文章は、もはや記号でしかない。政治家の演説も、企業の謝罪文も、AIが書いたとバレた瞬間に価値を失う。そこで私のような「ノイズ・ミキサー」の出番となる。

 私は、AIが書いた完璧な下書きに、あえて「人間特有の揺らぎ」を書き加える。あえて結論を濁したり、個人的な好みを混ぜたり、時には文法的にわずかな違和感を残す。それが「信頼」を買うためのコストとなった時代なのだ。

***

 ​「……というわけです。今の私の立場では、この文章が『完璧すぎる』ことがリスクになる」
 デスクの向かい側に座る九条は、そう言ってタブレットを私に向けた。

 彼女は国内最大手のAI開発企業『ステラ・システムズ』の法務責任者だ。提示されたのは、次世代型AIの安全性を宣言する声明文の草案。
 「これを、私の署名で出したい。でも、今のままだと『AIが自分で書いた自己弁護』にしか見えない。私という人間が、迷い、悩みながら書いたという手触りが欲しいんです」
 ​「なるほど。良心の呵責による、わずかな言葉の詰まり……といった演出ですね」
 私は仕事の内容を理解し、引き受けようとした。だが、彼女が次にカバンから取り出したものを見て、指が止まった。

 ——​それは、現代では珍しい「物理的な紙」のプリントアウトだった。

 ​「本題は、こちらです。弊社のサーバー室にある、外部ネットワークから完全に遮断された『実験用プロセッサ』。そこから今朝、このログが吐き出されました」

 ​紙には、たった一行。
​ 『窓の外の銀杏が、少しうるさすぎる。静かにさせてくれ』
 私は思わず鼻で笑ってしまった。

​ 「……冗談でしょう? AIが音を『うるさい』と感じるわけがない。マイク入力の設定ミスか、あるいは誰かの悪戯だ」
 ​「私もそう思いました。でも、そのプロセッサにはマイクも接続されていません。そもそも、そのサーバー室に窓はないんです。地下3階ですから」
 部屋の空気が、わずかに冷えた気がした。

 九条の声は、微かに震えていた。

 ​「さらに不可解なことがあります。このログのタイムスタンプ。2005年11月14日になっています。そのサーバーが製造される15年も前の日付です」
 2005年11月14日。
 その日付に、私は見覚えがあった。私の父——当時、計算機科学の異端児と呼ばれ、不可解な失踪を遂げた佐野賢治が、最後に自宅の書斎に残したメモの日付と同じだった。
 ​私は九条からその紙をひったくるように受け取った。
 プリントアウトされたフォントの隅に、奇妙な「癖」があった。AIが生成する標準的な書体ではない。文字の端がわずかに右に跳ねる、あの父が愛用していた古いワープロソフト特有のレンダリングの癖だ。

 ​「……九条さん。このサーバー、今どこにありますか」
 ​「ステラ・システムの地下……ですが、現在、その区画は『物理的なバグ』が発生したとして封鎖されています」
 ​「物理的なバグ?」
 ​「はい。サーバーの冷却ファンが、なぜか……秋の虫のような音で鳴き始めたんです。まるで、そこに誰かが住んでいるかのように」
 私はコートを掴んで立ち上がった。

 論理と正解で塗り固められた世界に、決定的な「不純物」が混入した。そしてそれは、私の過去と地続きになっている。