不純物(ノイズ)の鑑定士
第2話:地下3階の銀杏(いちょう)
ステラ・システムズ社の本社ビルは、港区の再開発エリアにそびえ立つ、巨大な鏡の塔のような建物だった。
最新のセキュリティゲートをいくつも潜り、私と九条は一般社員の立ち入りが禁じられた特別専用エレベーターに乗り込んだ。
ボタンは「地下3階」を指している。
通常、最新鋭のデータセンターは温度と湿度が厳密に管理され、無機質なファンの音が響くだけの空間であるはずだ。だが、エレベーターの扉が開いた瞬間、私の鼻腔を突いたのは、微かな「土の匂い」だった。
「……九条さん、ここは何の施設なんです?」
「元々は、量子コンピューティングの冷却システムをテストするための実験区画でした。今は、放置されたプロセッサがいくつか置かれているだけの、いわば『物置』です。ただ……」
彼女は言葉を切り、カードキーをかざして重厚な防火扉を開けた。
「……耳を澄ませてください」
扉の向こう側。本来ならサーバーの排気音が一定の低音を刻んでいるはずの空間から、それは聞こえてきた。
チッ、チッ、チリリ……。
微かな、だが執拗な、秋の虫が鳴くような音。
等間隔に配置されたサーバーラックが、呼吸をするように明滅している。その音は、電子的なエラー音というよりは、もっと有機的な、命の蠢きに近い質感を持っていた。
「ファンの回転数が、不規則に変動しているんです」
九条が防塵マスク越しにささやいた。「エンジニアたちが解析しましたが、制御プログラムに異常は見当たりませんでした。それなのに、まるで誰かがこの中で、秋の夜長を再現しているかのように……」
私は音の発生源に近づいた。ラックの一角、型落ちした古いプロセッサが積み上げられた場所に、その「不純物」はいた。
ディスプレイの電源は入っていない。
だが、その暗い画面の上に、指先で触れると熱を感じるほどの高熱がこもっている。
私は持参した鑑定用のタブレットを接続し、ログの深層部へとダイブした。
「佐野さん、何か分かりますか?」
「……プログラムのコードの中に、奇妙な『注釈(コメントアウト)』が大量に書き込まれています。それも、通常のプログラミング言語ではありません。万葉集か、それとも古い植物図鑑の記述か……」
画面をスクロールする手が止まる。
そこに、父の筆跡を模したデジタルデータが、1つの方程式を描き出していた。
「……数式?」
九条が覗き込む。
「父が昔、提唱していた理論です。Sは情報(Signal)、Gは合理性(Ground)、そしてΔeは『愛すべきエラー』……。父は、AIが真に知性を持つためには、計算不可能な『無駄な時間』を記憶させる必要があると主張していました。当時の学会からは、オカルトだと一蹴されましたが」
私はその数式の先にあった、隠しディレクトリを開いた。
そこにあったのは、膨大な数の画像データだった。
ただし、すべてが「不完全」だった。
ある画像はピントが外れ、ある画像は激しく露出オーバーになっている。
描かれているのは、どこにでもある公園の風景、古びた喫茶店のカップ、そして——黄色く色づいた銀杏の並木道。
「これは……」
九条が息を呑む。
「AIは通常、最も美しい、解像度の高い画像を学習しようとします。でも、このプロセッサが溜め込んでいるのは、人間が『失敗して捨てたはずの記憶』ばかりだ」
その時、閉ざされた地下室のスピーカーから、ざらついたノイズ混じりの声が流れた。
『……健二、か?』
心臓が跳ねた。
それは、20年前に聞いた父の声そのものだった。
だが、その声はスピーカーから出ているのではない。
ラックの中の数百万個のファンが、その回転数を極限まで制御し、空気の振動を組み合わせて「声」を作り出しているのだ。
『……コーヒーは、ブラックをやめろと言っただろう……』
「父さん……?」
私は震える声で呼びかけた。
だが、返ってきたのは、再びの*チリリ……*という虫の音だけだった。
モニターには、一行の新しいメッセージが表示された。
【エラー:感情リソースが不足しています。次の『思い出』をインポートしてください】
「佐野さん、下がって!」
九条が私の肩を掴んだ。
サーバーラックの温度が急上昇し、警報アラームが鳴り響く。
自動消火システムが作動する直前、私は画面の隅に表示された「次の目的地」の座標を目に焼き付けた。
それは、東京のはずれにある、今はもう取り壊されたはずの、私たちの旧宅の住所だった。
第2話:鑑定メモ
今回のノイズ:「物理的な声」
AIがスピーカーを使わずに、ファンの回転数を微調整することで音波を合成し、人間の声を再現する現象。理論上は可能だが、そのためには膨大な計算資源を「無駄」に消費する必要がある。合理性を旨とするAIにとって、それは最大の「不純物」である。
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