前回と同様、今回も、konichiwaさんのブログに関連した記事です。(konichiwaさん、たびたびすみません。非常に興味深い話題だったので。m(u_u)m)


konichiwaさんの外国人参政権反対の記事にたいする反論コメントについてです。


「通りすがりのブロガー」さんという方から、コメントがあったそうです。


konichiwaさん自身がすでに必要十分で説得力ある回答を提示なさっています。決着はすでについていると思います。

http://ameblo.jp/konichiwa/entry-10427607513.html

『本当に、日本と日本人が大好き(はあと)♪』)


ですが、似たような内容ですが、賛成論者との今後の議論の練習を兼ねて、私も、外国人参政権反対!の立場から、自分なりの回答を提示してみたいと思います。私は、理屈屋で話がいつも長くなりますので、なるべく簡潔に答えたいと思います。


まず、外国人参政権肯定論者のかたのコメントから。(konichiwaさんのブログからコピペです。)


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通りすがりのブロガーという方から、以下のコメントをいただきました。

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■「多民族国家」

外国人参政権に反対する運動、その他へのご尽力に敬意を表します。


ただ、「多民族国家」という言葉をどう解釈なさっているかが疑問ではあります。
「外国人参政権については、日本という国が多民族国家に変わる可能性を秘めています」と
おっしゃっていますが、この国は既に
相当前から「多民族国家」になっています。


中国や韓国・朝鮮籍の方々は言うまでもなく、
アジアや南米各国の人たち抜きには、
日本の経済は最早成り立たないことを
ご存じなくはありますまい。


「住んでいてもいいけど投票権はナシ」というのであれば、
消費税を含む税金を全く免除すべきでしょう。


税金だけもらって投票はできない、それってやっぱりおかしいと思う。

こういった方々が私たちの国に住むべきですらない、と言われるのでしたら
理解できますが。


僕は、このブログのタイトルのように
「日本と日本人が大好き」なので、
「いろいろな人と共存できる日本社会」であって欲しい。
だから、外国人参政権にも、選択的夫婦別姓にも賛成です。


あなたと全くぶつかってしまう意見ですが、失礼しました。

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まず、このかたのコメントに対する直接的回答を提示し、その後、関連する事柄を書きたいと思います。


● 直接的回答


(1) 論点の整理


「通りすがりのブロガー」さんのコメントは、ちょっとごちゃごちゃしていますが、整理すると以下でしょう。


①日本は、すでにたくさんの外国籍の人が働いている。外国人がいなければ、経済は事実上成り立たない。彼らを受け入れ、経済に貢献してもらっているのだから、参政権をあたえるべき。


②外国籍の人は、納税をしている。だから参政権をあたえるべき。


③日本は「共存社会」であるべき。だから参政権をあたえるべき。


(2) ①への反論


そもそも私は、「通りすがりのブロガー」さんとは前提を異にします。外国人労働者の受け入れ、特に単純労働者の受け入れをするべきではないと思います。外国人労働者に頼らずともすむ国づくりを、日本は目指すべきです。


まず、単純労働者の受け入れは、人道上問題があります。

左派的な人は、なぜかよくわかりませんが、「外国人労働者の受け入れは、人道的立場から求められるのだ。国際的平等のために必要だ」と主張しますが、これは根本的に誤りです。

外国人労働者として単純労働に携わる人々は、本当は、はるばる異国にきて、知らない人々の間で、ダーティワークに従事などしたくないはずです。彼らは、自国が貧しく、また多様な人生の機会も与えられないので、本当は望まないのに、日本に来ざるを得ない人々です。日本は、エゴイスティックな日本の経済的利益のために、そういう外国人の弱みに付け込んで、単純労働者として受け入れ、依存してはなりません。それよりも、必要であるなら、単純労働者の送り出し国にたいする「国造りの援助」をするほうがよほど人道的です。

つまり、人道的観点からして、外国人単純労働者の受け入れはせず、その分、彼らがわざわざ外国に来て底辺労働に従事せずともよいよう、「国造りの援助」を積極的に行うべきです。


(この点については、以前のブログで詳しく書きました。そちらをご参照ください。)

「日本移民国家化推進論に反対する」

http://ameblo.jp/konokuniwagakuni/entry-10397756140.html


次に、日本の経済としては、konichiwaさんもご自身のブログで回答していますように、日本の失業者、無業者、年配者など現在、職がなくて困っている人々を活用すべきです。さらに政府は、いわゆる3k労働の機械化などの試みを国策として探るべきです。

また、外国人移民の受け入れによって少子化に悩む日本の国内需要の拡大をねらうという議論もありますが、これもいかがわしい議論です。最近、三橋貴明氏が常々言っておりますように、国内需要の縮小は、少子化自体ではなく、公共事業の大幅削減によるところが大きいようです。

加えて、外国人労働者の受け入れは、彼らのための社会保障や教育の整備、治安への不安などを考えると、コストのほうが大きい可能性が高いです。


以上のことから、「外国人労働者を受け入れなければ日本経済は成り立たない。だから「多民族国家化」を前提に話をすすめるべきだ」という前提から議論を始めることはおかしいといえます。そもそも、日本国民の多くが、外国人単純労働者や移民を受け入れてでも経済成長したい!と望んでいるかどうかはわかりません。選挙の争点になったことがないからです。(おそらく多くの人は、移民を受けれてでも経済成長を成し遂げることは望まないのではないでしょう。そのほかの形での経済成長を模索するためにこれまで以上の努力をするか、あるいは経済成長を一部断念するほうを望むでしょう)。


それに、経済に貢献してくれているから、参政権を与えるべきというのも、変な話です。労働者のほうも、わざわざ日本まで来て、自国に比べれば高い給料を対価として得るわけですので。参政権の意味についての誤解があります。


(3) ②への反論


納税の議論は、もういいでしょう。少なくとも、ネットで情報を集める人には常識です。

納税は、行政サービスの対価です。(ごみの収集、治安の維持など)。

納税しているから参政権が与えられるべきだという主張は、さんざんあちこちで反論されていますので、もう持ち出すのはやめましょう。


一つ、付け加えるとすれば、参政権は、たとえ地方参政権であっても、自分と自分の子孫は、その国と基本的に運命を共にする、その国が危機に陥ったら自分の利益を投げ出してでも国のために貢献するという帰属意識と忠誠心がある人々にのみ、与えられるべきです。

そういう帰属意識と忠誠心に欠けている人々に、参政権を与えてしまうと民主主義の観点からまずいことになります。


(この点については、私の以前のブログで書いていますので、そちらをご覧ください。)

「国益(公益)を異にする者の間に民主主義は不可能――外国人参政権反対論(4)」

http://ameblo.jp/konokuniwagakuni/entry-10415444336.html


(4) ③への反論


外国人参政権の正当化論で、よく持ち出されてウンザリするのは、「多文化共生」、「共生」の議論です。今回の「通りすがりのブロガー」さんのコメントでは「共存」という言葉を使っていますが、「共生」と意味は同じでしょう。


(ちなみに日本人はこの言葉に最近とても弱いですねえ。英語圏など他の国では、「共生」はあまり理想として持ち出されないので、ちょっと不思議です。)


まず、「通りすがりのブロガー」さんへのコメントへの反論としては、「多文化共生」なるものをまず認めるとしても、なぜそれが参政権の付与をともなわなくてはならないかが不明瞭だという点です。その指摘だけで反論としては十分でしょう。


さらに補足的に述べれば、「多文化共生」(「共存」でも同じ)という言葉の現在の使われ方は、誤解というか、一方的です。


「多文化共生」には、常識的に考えて、二つのタイプがあります。


a. 「雑居型モデル」と、b. 「棲み分け型モデル」です。


現在、左派の人々が好む「多文化共生」は、そして残念なことに「多文化共生」という言葉のもとで一般的に理解されているのは、「雑居型モデル」のほうです。国境線をとっぱらって、一つの地域、一つの社会に多様な民族を混ぜよう!という方策です。しかし、これは、旧共産主義国家(ソビエトなど)が試みて、大きく失敗しています。結局、はからずも全体主義国家につながってしまう恐れが大きいのです。

オランダ、ドイツなどの移民や外国人労働者を積極的に受け入れようとした試みも、治安の悪化、社会的統合の喪失など、大問題を引き起こしています。


また、国境線をとっぱらってしまい、国籍を軽視し、さまざまな文化的出自の人を一地域に混ぜ合わせようという「雑居型モデル」では、結果的に、各国の文化は、標準化され、世界中の文化がいわゆる「マクドナルド化」(画一化)してしまう恐れがあります。結局は、多様な文化など世界から消え去ってしまう危険性が高いでしょう。


それよりも、「棲み分け型モデル」のほうが、「多文化共生」の理念にかなっています。

つまり、国ごとに、自分たちの文化に愛着をもち、文化に根差した国づくりをしていく。たとえば、フランスはフランスの、韓国は韓国の、日本は日本の文化を大切にし、それぞれの文化を活かし国民に住みやすい国づくりを各々で行っていく。

そうして、世界的にみれば、さまざまな文化が自分たち自身の国を持ち、国を単位として共存・共生していく。

このような「棲み分け型」多文化共生のほうが、「多文化共生」の本来の理念にかなっているはずです。


(以上の点についても、まだ不十分ですが、以前のブログ記事に書いたことがあります。そちらをご覧ください。)

「『棲み分け』という理念――英国の「極右」政党の問題から考える」

http://ameblo.jp/konokuniwagakuni/entry-10372543436.html

「日本の移民国家化 → 厳しい『人権擁護法案』の制定 → 警察国家化という必然性」

http://ameblo.jp/konokuniwagakuni/entry-10365079628.html


「共存」、「多文化共生」という言葉は、一見美しい、現在では受け入れられやすいものとなっているようですが、それを曖昧なかたちで使い、自分も相手もごまかすようなことがあってはなりません。


おそらく、私を含め、多くの国の人々(日本人も含む)は、自国が、「雑居型」多文化共生モデルを取り入れることは望まないでしょう。すなわち、自国の文化がその他の文化と同列に扱われ自国内でone of themにすぎなくなってしまうことや、自分たちが自国でなじみやすい環境で暮らすという権利を手放すことを望まないでしょう。


目指すべきは、それぞれの国は自国の文化を大切にし、文化に根差した政治制度や社会を作っていき、国ごとに棲み分けるという「棲み分け型」多文化共生世界でしょう。

各国は、それぞれ自分たちの文化を大切にし、なじみやすい秩序をつくる。そして互いの国の自決を尊重する。もし破たん国家や非常に貧しい状態に陥っている国がある場合は、豊かな国はそうした国を積極的に援助する。そして、世界全体として国ごとに多様な文化が栄える世界秩序を作る。そういう「棲み分け型」多文化共生世界です。


「棲み分け型」多文化共生モデルのほうでは、国籍・国境は大切です。こちらのモデルでは、外国人参政権のような国籍を軽視する発想はとられません。


外国出自の人々が、他の国に移住したいというときは、帰化が前提となり、そして移住先の国の文化を基本的に尊重し、そこに帰属意識と忠誠心をもつことが前提となります。(もうすこしきちんと論じる必要はありますが、ここでは話を単純化します。)


「共存」という言葉を盾にして外国人参政権を正当化しようとする「通りすがりのブロガー」さんの意見は、「共存」(多文化共生)の一面的理解に根差しているものであり(つまり「多文化共生」とは「雑居型」モデルのみだと理解してしまっているので)、説得力がありません。


補足ですが、「多文化共生」理念の誤解・悪用への批判については、以下の長谷川三千子氏の産経新聞での論説もご覧ください。

(長谷川三千子「ほんとは怖い多文化共生」『産経新聞』09年1月12日付)

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090112/acd0901120303000-n1.htm


「通りすがりのブロガー」さんのコメントについての反論は以上です。


● 関連する事柄


もう一点だけ。

これは、直接に「通りすがりのブロガー」さんのコメントには関係がないのですが、気になったので。


「多民族国家」と参政権の問題です。


大多数の「多民族国家」(アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの移民国家)は、いろいろな民族的出自の人が、その国に帰属意識と忠誠を誓い、帰化し、国籍をとっています。多様な民族的出自の人が、一つの国籍をもっています。それが普通の「多民族国家」の姿です。


そこでは、ニューカマーの移民出身の人々の願いは、国籍を得て、社会のフルメンバーとして認めてもらうことです。

「国籍が欲しいのに認めてもらえない」ということが、普通の多民族国家でよく問題となることです。


日本の在日の一部の人々のように、3世、4世の世代になり、日本側も国籍取得を勧めているのに、「国籍はいらない。それは自分のアイデンティティの毀損につながる。でも参政権はほしい」というのは、評価は別として、世界でも稀にみる主張でしょう。極めて特殊な事例のはずです。


そういうわけで、「多民族国家」一般と同列に、昨今の我が国での外国人参政権問題を論じることはできません。


日本の外国人参政権の問題は、民族差別とか人種差別とかの問題ではなく、「日本の国籍は欲しくなく、日本に忠誠も誓えないし、むしろ敵愾心をもっている、あるいは自分の出身国のほうに忠誠を誓い続けたいが、日本の(地方)参政権はくれ」という主張の是非を認めるか認めないかの問題と解釈すべきでしょう。


私は、こういう主張はを認めるべきではないと思います。

(私のその他の外国人地方参政権付与に対する反論は、このブログの「テーマ一覧」の中の「外国人地方参政権」の各記事をご覧下さい。特に、参政権付与の条件については、その中の「反対論(4)」の記事の最後の部分を参照してください。)


(やはり、無駄に長くなってしまいました。かえってわかりにくくなってしまったかもしれません。失礼しますた。m(u_u)m)