佐和山城 滋賀県彦根市 | 細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

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令和5年3月31日に次男と滋賀県彦根市の佐和山城に訪れました。高速道路で1時間半くらいかかりました。


まず彦根駅前の観光案内所で、佐和山城跡MAPをいただき、行き方を教えてもらいました。まずは麓の龍潭寺を目指すことにしました。


龍潭寺の石田三成公像


佐和山城といえば石田三成の城ですね。関ヶ原の戦いの西軍の総大将です。以前書いた日記を載せておきます。↓




鎌倉時代初期、近江源氏佐々木時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられています。戦国時代には浅井氏の磯野員昌が籠り、信長により包囲されますが、後に降伏します。信長はここに丹羽長秀を配し、秀吉時代は堀秀政、堀尾吉晴、石田三成を配しました。

三成の時代には本丸以下、二の丸、三の丸、太鼓丸、法華丸が連なり、山下には東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内には侍屋敷、足軽屋敷、町屋などの城下町が建設されました。

1600年の関ヶ原の戦いで三成が徳川家康に敗れた後、三成は湖北へ逃走、小早川秀秋を主力とする15000人が佐和山城を包囲しますが、三成の父、兄の守備は堅く執拗な攻撃によく耐えましたが、兵力の違いはいかんともしがたく落城。天守は焼かれて自刃して果てました。三成も家康により処刑されました。豊臣家に忠義を尽くした武将の哀れな最後でした。家康には恩賞として与える土地があるとか、敵武将の懐柔とかの合戦前の根回しなど勝因は色々あると思いますが、三成の最大の敗因はやはり豊臣秀頼を総大将として出陣させられなかったことだと思いますね。豊臣対徳川の争いに持っていかなければならないところを石田対徳川の私戦にされたことで、そりゃ味方も減りますよね。秀頼が総大将になったら、豊臣に恩のある加藤清正や福島正則、黒田長政ましてや小早川秀秋は果たして徳川に味方しただろうか?と考えるのです。

その後、井伊直政に佐和山城が与えられましたが、翌年直政は死去。井伊家の家老の木俣守勝は家康に相談して彦根山への移築が決定しました。


龍潭寺山門


本堂


この山門と本堂を超えて、寺の本堂の右側を登って行くと、墓地が出てきます。最初の方は、最近でもご親族が参っているのでしょう、檀家なのでしょう。綺麗に整備されております。しかし、上に行くに従っておそらく無縁仏なのでしょう。無造作に置かれた墓石だけが散乱しています。こういう登城口は初めてなので何か申し訳ありません、失礼しますという気分になりました。


山頂まで30分くらいとのことでした。ところどころ険しい坂がありました。


切通し

これは明らかに人が掘削したのが分かります。


塩硝櫓跡


西の丸跡


竪堀


本丸跡

次男もぜえぜえ言いながら頑張って頂上まで辿り着きました。ここで一休みしました。

かつて本丸に存在したであろう天守台や枡形(入り口)などの遺構はほとんど確認することができません。本丸は大規模な破城があったと考えられます。


隅石垣

この石垣は本丸の隅部に位置し、しかも石垣の基底部であったと考えられます。


本丸跡から見える景色

彦根市内が一望でき、彦根城も確認できます。遠くには琵琶湖や湖西方面も見えます。 



佐和山城の縄張り図


佐和山城の御城印

彦根観光案内所で購入できました。


他にも何人か城を訪れている方もいました。帰りは次男の足もスムーズでした。この後は昼飯を食べて、彦根城のひこにゃんショーに連れて行きました。とても喜んでいました。


ひこにゃん


次男に御城印帳と彦根城の御城印を買ってあげました。


彦根城の売店でお土産にひこにゃんどら焼きとチョコクランチと地ビールを買いました。


以前書いた彦根城の記事です。今回の写真もいくらか付け足しました。↓



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