ところが目的の一つにしていた黒井城の御城印が今年の2月で全販売所での売り切れということで断念しました。残念(≧∀≦)
しかし、続100名城のスタンプは春日住民センターというところで手に入れることができました。
そうして、昼過ぎから黒井城を登山するとこにしました。正直どのくらいの山城が調べずに行ったので不安でしたが長男は昔からよく山城に連れて行っているのでまあ大丈夫だろうと思ってました。黒井小学校を過ぎたあたりの小さな駐車場に停めて、登城口に急峻なコースと緩やかなコース2通りあったので当然緩やかなコースを選びました。
ところがまあまあ傾斜が厳しいところや滑りやすいところがあり、自分もしんどく、息子もだいぶきつそうでしたが何とか45分ほどで登頂できました。
山頂部には城の主郭跡が残ります。
黒井城は南北朝時代の建武2年(1335)春日部荘を領した赤松筑前守貞範が山頂に砦を築いたのが始まりと言われています。
その後約200年間数代にわたって城主の変遷がありましたが、戦国動乱の最中の天文23年(1554)荻野悪右衛門(赤井直正)が城主となり、その勢力拡大とともに大改修されたのが現在の黒井城です。直正は甲斐武田氏の甲州流軍学書「甲陽軍鑑」の名高き大将衆13人に数えられ、近隣諸豪から丹波の赤鬼と呼ばれ恐れられていました。
勢力を伸ばしてきた織田信長に一度は服命しますが、山名氏との関係悪化から信長と敵対することになります。明智光秀による第一次丹波平定戦では八上城の波多野秀治の裏切りにより、直正は光秀軍を撃退できました。しかし直正は天正6年(1578)に病気のため亡くなります。
本丸跡
明智光秀は直正の死を機に、第二次丹波平定戦を開始し、八上城の波多野氏、ついで黒井城の赤井氏を滅ぼしてついに丹波を平定したのです。
本丸跡から見る黒井の町並
興禅寺
黒井城の麓にあります。城下館跡で平時、城主はふもとの館で政務を行った。水をたたえた7間濠、高石垣と白い練り塀を巡らせ堅固な防御施設を備えている。
興禅寺
丹波攻めの後光秀の重臣斎藤利三が黒井城主となり、娘のお福(のちの徳川三代将軍家光の乳母、春日局)がここで生まれ、3歳まで育ったとされる。春日というのはこの辺の地名であることは初めて知りました。
JR黒井駅の前には斎藤お福さんの銅像がありました。この辺りでも遊んでいたんでしょうか?
道の駅「丹波おばあちゃんの里」で明智光秀と赤井直正ゆかりの地ガイドブックを購入しました。1100円。写真入りで史跡を詳しく紹介してあり大変分かりやすいです。
黒井城の周辺には赤井氏側の多くの支城があり、光秀が丹波を平定するのに大変苦労したのが分かります。