坂本城 滋賀県大津市 | 細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

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令和2年12月29日本年度最後の城攻めです。仕事納めを終わり、家の大掃除も後はエアコンの掃除だけとなったので息子たちと行ってきました。
前からここ行ってみたいと思っていたのですが、現在大河ドラマ「麒麟がくる」でちょうど坂本城が出ているということで。
 

明智光秀像

以前ブログで取り上げた亀山城の光秀に比べて、ずんぐりむっくりで不細工です。
この近くに光秀についての歌「光秀(おとこ)の意地」の碑とボタンを押すと鳥羽一郎さんが歌うという装置があり、なんともしぶかったです。
 
元亀2(1571)年織田信長の命により、琵琶湖の水運による交易の確保と比叡山延暦寺に対する抑えとして光秀が築城。初めての瓦葺き天主を待つ水城。天正14(1587)年廃城となり大津城へ移転。
 
水が引いている時はもっと石垣が見えるようなんですが、今日はこのような状態
 
子供達は湖の浜辺で遊んで楽しそうでした。寒かったけど、子供達のリクエストで坂本城址公園でお昼を食べました。
明智塚
坂本城で戦死した将兵を祀る。光秀の墓所とも。光秀の刀である郷義弘埋葬伝承。
 
東南寺
坂本城の跡地。今津堂。
 
西教寺
明智光秀や妻を含む一族の墓がある菩提寺。坂本城から城門、陣鐘、陣屋を移築。天台真盛宗総本山。
 
光秀直筆寄進状(西教寺資料館)
元亀4年今堅田の戦いで戦死した部下の霊を弔うため寄進した供養米の寄進状である。18人の討ち死にした者の中には中間という身分の低い者もおり、身分に関係なく分け隔てなく供養米を奉納されているのが分かる。光秀の部下を思う温情あふれる人柄が垣間見える貴重な資料である。
 
明智秀満の鞍、鐙(西教寺資料館)
名高い湖水渡りの際に使用したと伝わる。
 
秀満は山崎の戦いの時、安土城から光秀の救援に向かいましたが、光秀の死を知り、急遽行き先を坂本城に変更しましたが秀吉の兵に囲まれました。そこで馬のまま琵琶湖に乗り入れました。秀吉の兵達はいずれ溺れるだろうと笑っていましたが、琵琶湖の遠浅を熟知していた秀満は簡単に渡りきり唐崎に上陸しました。その後坂本城で防戦しますが、かなわず城に火を放ち一族とともに自刃しました。
 
坂本城の想像全景ジオラマ
宣教師ルイス・フロイスは安土城と共に近江を代表する美しい水城であったと伝えています。
 

坂本城想像図


坂本城想像図


光秀の筆書図
麒麟に乗ってかっこいいですねー
この絵、後で知ったんですが、墨絵師の御歌頭さんという有名な方が書かれたものでした。畳4畳程ある大きなものです。
 
坂本城の御城印を欲しかったのですが、寺内の売店が閉まっていたため、西教寺の御朱印を代わりに購入しました。もちろん、光秀さんの家紋、水色桔梗入りです。
 
後日坂本城趾の近くにあるKKRびわこホテルさんにて御城印を購入できました。
 
今年も皆さん一年お疲れ様でした。来年こそはコロナが落ち着いて、日本の経済も日常の生活もいい方向に向かうことを願います。

令和5年10月から宅地造成のため市が約900平方メートルを調査していたら、高さ約1メートル長さ30メートルにわたる石垣が出土した。現場は本丸推定地の湖岸から約300メートルの位置で、三の丸の石垣と外堀と見られる。


令和6年2月10日に見学してきました。







櫂(かい)と見られる木材が出土したことから小舟が琵琶湖畔と外濠を行き来していた可能性があるという。