約束された場所で……
ここは、わたしが眠りについたときに
約束された場所だ。
目覚めているときには奪い去られている場所だ。
マーク・ストランド「一人の老人が自らの死の中で目覚める」より抜粋
ルーブル美術館へ来るたびにジョーは思う。
ダ・ヴィンチは三枚の絵を携えてフランス国王へ保護を求めたはずなのに、どうしてその中の一枚だけが、どうしてこれほどまでにもてはやされるのだろうかと。
「それはそうよ。考えてもみて、多くの歴史的人物がどんなことをしても手に入れたいと願った世界の至宝なのよ」
いつもと違ってラフな服装に身を包んだフランソワーズがくすくすと笑いながら、そう応えた。ルーブル美術館は広い、この広い美術館の中を廻るには軽装が向いているのだろう。彼女のパンツ姿など、こんな時でなければ戦闘時くらいだ。
「ヒットラーの手から逃れるために避難までして、なんども盗難騒ぎを起こされて、こうして防弾ガラスと監視カメラのなかで彼女はようやく安らぎを手に入れたんだわ」
これを安らぎと言うのは、どうしたものだろう……。
各国の観光客でひしめくその一室。彼らは禁止されている写真撮影などを平気で行う。フラッシュの光で絵は痛まないのだろうか、ふとそんな考えが頭をよぎる。
「でも、あなたはモナリザよりもこっちの絵の方が好きなのよね」
モナリザの間に入る手前の廊下に、ダ・ヴィンチの絵が二枚展示されている。
そのことに気づく観光客はどれだけいるのだろうか。ジョーは眼前で神秘的な頬笑みを浮かべて天上を指し示す青年の絵をじっと見つめた。
「洗礼者ヨハネ……」
偉大な預言者、そして神の子であるイエス・キリストに洗礼を施したもの。
「フランソワーズ、彼は何が天上からやってくるといっているんだろう」
この穏やかに微笑んだ青年は天上から何がもたされると言いたいのだろう。ジョーには読み取ることが出来ない。
まじめに問いかけたつもりだったのに、フランソワーズは噴き出して笑い始めた。
「もう、ジョーったら!」
彼の肩を軽く叩くと、
「決まっているじゃない! 救い主が天上から降臨されることを示していらっしゃるのよ」
きっぱりと言い放つ。
「贖い主。私たちの罪を背負って十字架に架けられた救世主が私たちも元へ舞い降りることを示していらっしゃるのよ。だから、こんなに穏やかに微笑んでいるのだわ」
その言葉に彼女の心には神があるのだと思う。
神……。
日本人であるためなのか、それともこんな機械仕掛けの体になったためなのか、ジョーには神という存在がよくわからない。
―僕たちはまるで彷徨えるユダヤ人のような日々を送っているのに……。
最後の審判のその日まで永遠に世界を彷徨い、死ぬこともできない、哀れな伝説の人物の姿にジョーは自分たちを重ねてみていた。
✠
白虹が太陽にかかっていた。
この極北の大地の夏に夜は来ない。
人も獣も住まうことのない大地をこうして訪れるのは何度目か……。
立ち止まることは許されない。
あの方に言われたのだから、再び私が来ることを待て、と。
その日がやってくる、その日まで休むことなく歩み続けなければならない。忌まわしい我が身、一時の休息をあのお方が求められたときに、かの望みを叶えていたならばこのような身になることなどなかったと云うのに。
「おや、あんたは……」
あゝ、そうだった。己は再びこの年老いた異教徒の巫女にまみえるために、この地を訪れたのだ。異教徒の神に選ばれて、その神の子供を産み落としたこの女に会うために。
「この場所は変わらない」
世界は彷徨い続ける彼にも御しがたいほどの速さで変わっていくと言うのに、この場所だけは変わることがない。
確か、以前彼がこの地を訪れてから有に千年近い時が経っているだろうに。
「ここはあたしとあの子のためだけの世界だからね」
黙して、何も語らない異教の神の子。彼は何のためにこの世界に産み落とされたのだろうか……。異教の神の子は静かに穏やかな眼差しをして彼の顔を見つめているだけだ。
「ここは良い。静寂と安寧に満ちている。だが、俺はここにとどまることは許されない。あのお方は俺に何を望まれているのだろうか」
椀に汲んだ水を一杯だけ、所望すると諦めたように彼は呟いた。
「あんたの神が何を望んでいるのか、なんてあたしにはわからない。あたしにあたしの神様が何を望んでいるかなんて、わからないようにね」
神託があったのだと語っていた。そうして男を知らずにこの女は身籠った。
清廉であるべき巫女が身籠ったことに周囲は怒り狂い、彼女を腹の子共々始末しようとした。狂気に満ちた人々から逃れようとして、彼女はこの場所を与えられた。それから、ずっとこの閉じられた世界で暮らしているのだ。
彼女は、彼女らを誅しようとした人々がどうなったのかは知らない。
彼は一度だけ、彼女の住んでいたと言う故郷を訪ねてみたが、人の住んでいた形跡など何一つ残ってはいなかった。それどころか、獣も住まうこと叶わぬくらいに荒れ果てた大地となっていた。
それほどまでにこの女の神の怒りは大きかったのだろうか。
それならば、彼が受けている贖いもわかるような気がした。
その時、巫女が椀に冷たい水を汲んで彼に渡してくれた。
椀の縁に溢れんばかりに汲まれた新鮮な水。乾いた咽喉を潤そうとして、椀の中を覗き込んで驚いた。見知らぬ顔が彼を驚いたような顔をして彼を見つめていた。
「これは誰だ……?」
栗色の髪が片目を覆い隠していた。若い、まだ少年のような顔……。
東洋人、だろうか……。その顔に付いているのは、血だ……。
「なんだい、気が付いていなかったのかい。あんたはいつだって違う姿でこの場所に現れる。あるときは年老いた男。あるときは若い女。今度は戦装束に身を纏った若い男の姿だ」
がらん、と音を立てて男の手から椀が落ちる。こぼれた水が乾いた大地に染みをつくった。
どうして、こんなことになっているのだ。あの方はこの俺に、私がやってくるのを待て、と言われたのではなかったのか!
「姿かたちが変わってもあんたはあんただ。外の世界であんたはこの姿で彷徨っているのだろう」
姿など皮一枚のことだから、大したことではないだろう、そう言って彼女は笑った。
「外の世界……」
人々は常に相争い、大地から嘆きの歌が途絶えることはない世界。そこが彼の世界だ。
「あたしたちに与えられたこの世界は美しい……。それはここが閉じているからだ。あたしはこの閉じられた世界で朽ち果てるまで生きて行く。あたしの子と一緒に」
白虹に照らされた静寂に満ちた世界。だが、そこに静寂が満ちているのはこの世界が閉じて、あり意味では死んでいるからだろう。
戻らなければ、唐突に思った。
硝煙の匂いと血に塗れた日々。いつ果てることのない戦いに身を投じながら、それでも最後の日が来るまで歩き続けなければならない。
そうすれば、あの方と約束された場所に辿り着けるのだろう。
歩け、歩み続けよ、そう命ずる声が消えない限り、彼は歩き続けるしかないのだから。
そこに、救い、はあるのだろうか……。
「もう、お帰り。あんたを呼んでいる声が聞こえる。あんたはあんたの神に命じられるまま、今度はその姿で歩み続けるしかない。あたしがこの世界で生きて行くように……」
「約束された場所に辿り着き、あの方が再び戻られるその日まで……」
白虹が輝く静寂に満ちた世界に留まることは許されないのだ。
✠
「ジョー、ジョーったら」
名前を呼ばれて我に返った。
「フランソワーズ……」
青い瞳が心配そうに彼の顔を覗きこんでいた。
「どうしたの? いきなりぼんやりして」
「どう、したのかな……」
彼の眼の前には変わらぬ笑みを浮かべた『洗礼者ヨハネ』の絵があった。
「時差ぼけでもしてるなかな。なんだか、人に酔ったみたいだ」
先程、見た幻想を思い浮かべる。彼は伝説の彷徨えるユダヤ人となっていた。そして、神の子供を産んだ老女に出会った。
どんな意味があるのだろう。老女は言った、あんたはその姿で世界を彷徨っている、と。では、今の彼は彷徨えるユダヤ人だと云うのだろうか? わからない。
「カフェに行って休みましょう。本当に、今日は人が多いもの。人いきれで酔ったのよ」
彼の腕を取るとゆっくりとフランソワーズは歩き始めた。
共に歩みながら、一度だけジョーは『洗礼者ヨハネ』と呼ばれるダ・ヴィンチの絵画を振り返った。
そうして、一つ得心する、天から救い主が戻るその日までと彼は指し示しているのだ。
そう、贖い主が十字架に架けれながら自ら人々に告げたように、救い主たる彼が約束された場所に辿り着くその日まで……。
終
後書き
まず本日、『舞台 サイボーグ009』の初日、おめでとうございます。
こちらは以前運営していたブログにUPしていた小説です。荒野で009が正体不明の巫女である老女と問答するだけの話ですね。それと『さまよえるユダヤ人』伝説とラーゲルクヴィストが書いた小説『巫女』が元ネタです。
うーん、やっぱり難しい。
私はダ・ヴィンチの絵では『洗礼者ヨハネ』が好きです。因みに場所は(変わっていなければ、『モナリザ』の絵の部屋に入る入口の廊下に同じく彼の作品の『岩窟の聖母』と一緒に展示されているはず)
忙しいので舞台を観劇できるかはわかりませんが、ジョー役の七海さんをはじめ、皆さんが千秋楽まで力いっぱい演じてくださることを願って
白黒版009。私が好きなのは『太平洋の亡霊』と『Xの挑戦』です♪