私がなぜ“何をするかより誰とするか”を軸にしているか? | 近藤昇ブログ 仕事は自分で創れ!

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「仕事は自分で創れ!」ブレインワークスグループCEOの近藤昇が、日本とアジアをはじめとするエマージンググローバルエリアに対する思いやビジネスについて発信します。

 

 

長年ビジネスをやっていると結果的に付き合う相手を選んでいる。

もちろん、これはお互いさまの話である。


短期的な損得の世界だけだと例外は山のようにあるが、長くなるとやはり相手を選んで付き合っている。例えば10年を越えた付き合いになると、単純な損得を越えた付き合う理由が必ずある。今、話題の映画“糸”でも表現されているように、実に人の付き合いというのは運命的であり必然的であるが、結局は自分の意志と選択ではないかと私は確信している。

 

私の場合は31歳で起業した時から、シンプルに言うと、自分が誰と会社を運営したいかで、社員を採用してきた。それまで9年間会社勤めをしていた間は、そもそも、働く相手、つまり、上司や同僚や部下を自分が選んだわけではない。


よく創業の理由に、大きな組織で働くのが自分には合わない。人に指示されるのがイヤだから。そんな話は日常茶飯事なぐらいよく聞く。私がどうかと言えば、創業してしばらく取材などを受けた際は、そういうもっともらしい理由を口に出すことは度々あったが、今にして考えてみれば、“自由に生きたかった。好きなことを馬の合う人と仕事したかった。”ということに集約されると思う。


農家と言う自営の世界で生まれ育った私は、組織に属するという事がそもそも向いていない。拘束される感がどうしても若いころはあった。


その自分が起業して人を採用して、その後、様々な体験をして、そして今、自分が自由を目指して創ったはずの組織に縛られていることに気づく。


最近は、下であろうが上であろうが、結局人間と言うのは組織に縛られるものかもと思っている。言い方を変えれば、人間は人間関係に縛られる。という方が今の私の感覚に正しいかもしれない。

だから余計に“自由になりたい”と今、強く思う。

 

自分でも思うが、私は最近“何をするかより誰とするか”を頻繁に使う。

もう10年以上前に、ベトナムのセミナーで話し出してから、事あるごとにセミナーで話したり、文章にしている。20代の悶々としていた頃の呪縛が解けたようにと言ったら、言い過ぎかもしれないが。



あらためて、私の周りを見渡すと、似たような表現を標榜したり口に出す人は多い。

だからと言って、その方々全員と馬が合うとは限らない。相手にとっても、何をするかより誰とするかは、大事なのだから。

 

そんな風に、考えると、そもそも、誰とするかを重要視しない人がいるだろうか?

あわせて、何をするかを重要視しない人はいるだろうか?

友達作りや結婚の話ではない。

私のライブ番組“ブレワ”でもよくこのテーマで話しするが、

私が何をするかより誰とするかはあくまでもビジネスの話と社会貢献の話である。

最近は、この2つの両立の話が増えてきたので、私の望みとしては、両方で馬が合う事が望ましいし、これからもそういう方と巡り合うために、私もそうであるように努力したい。

こんなことを考えていると、改めてこの“何をするかより誰とするか”の意味や意図を考えてみたい。

 

まず、何をするかはとても大事である。

プライベートであれば、明日一緒にゴルフしよう。という話であれば、単純に折角のゴルフ、嫌いな人とプレイしたくない。


逆に極端に書くと、地球の環境問題を解決しようと目標掲げたときに、誰とするか?当たり前だが、こういう本気モードのテーマになると、好き嫌いだけの問題ではない。どこまで相手が本気か?そもそも、それを実行するだけの力量、体力、やり切る力・・・経験、など誰とするかを見極めるのに、数多くの決定要因が並ぶ。


もちろん、ビジネスの現場では直感が90%ぐらいのウエイトだと思うが、そうだとしても、お互いに相互で影響し合えない、切磋琢磨できない相手だと正直対象にならない。ある意味では、似た者同士を選ぶと思う。


要約すると、

何をするかはもちろん大事である。

その何をするかの内容やテーマによって、誰とするかを決める。ということである。

だから、何をするかが大事はでない。という意味ではない。

 

色々と書いては見たが、今回の結論としては。


“何をするかより誰とするか”もお互い様である。

こういう近い考えの人同士が、誰とするかを選ぶ。

もちろん、それは偶然の必然であり、自分の意志で決めれることである。

本当の意味で、それが出来たときに、組織からも離れ、私は自由な生き方ができるのだろうと思う。

 



以上