川崎殺傷事件
人の命を奪いさった凶行は断じて許されるものではない。
残された者の責任として教育者の責任として、
今後このようなことが起こらぬよう
私なりにしっかり検証していきたい。
1歪(いびつ)な凶行!対処療法ばかりに気を取られてはいけない。
このような通り魔的凶行にその場の誰がどう対処できたのでしょうか?
このような歪(いびつ)で無差別的殺意をもった人間から、命を守る現場対応を考えれば考えるほど日常ののどかな市民生活からかけ離れていくしかないのです。
防弾チョッキや鎧兜を身にまとい、
挙句の果てに自分も武器を携帯して、
何時襲ってくるかもわからない隣人に
精神的緊張感をもって我々は子供たちを送り出さねばならないのでしょうか?
対処療法を突き詰めれば、行きつくところ
トランプ大統領訪日のような特別警備体制を取らざるをえません。
実際の市民生活の中ではそれは不可能、
また、そんな世の中を誰も望んではおらず、
歪で反社会的凶行に対処療法を求めれば
世の中は同じように歪にならざるをえず、
日常が歪な状況の中からはモラルに満ちた市民感覚の醸成などは逆効果であることは誰しもが認めるところです。
極端な例を挙げましたが多かれ少なかれ世の中は凶悪でいびつな犯行が起こるたびに
問題の本質を見誤り、歪な凶行を念頭にした対処療法を取る傾向に陥っています。
特に子供たちには顕著で「知らない大人と口を聞いてはいけません」などと歪な市民感覚を強要してしまっています。人は知らない誰かとコミュニケーションをとることで良好な人間関係を育み、人格形成を形成していくことは誰しもが理解できることです。しかし、学校や家族などドメスティックで内向きな枠組みの中でしか気を許すなといった感覚が広がりつつある現実を例に挙げれば歪な傾向化を理解していただけるのではないでしょうか?
勿論、犯罪から市民や幼い子供たちを守るために防犯カメラの設置や通学路の見守りを地域ぐるみで行うなど対処療法は必要です。
要は対処療法だけでは限界があるということです。
限界があるだけでなく問題を助長しかねない要因も含まれていることに我々はもう気付かねばなりません。
対処療法に頼るばかりではなく長い目で見た市民感覚の醸成が求められるのです。
今求められる市民感覚とは?
どのような認識が不足しており
どう書き換えていかねばならないのでしょうか?
2 思いやり、優しさとは何なのか?社会全体の共通認識の書き換えが必要なのです。
人に優しくと簡単に言いますが
人に優しいとはどういうことでしょうか?
言葉を精査せねばなりません。
優しさの履き違えその1
今世間でいう優しさには相手を否定的に見ないという感覚が強く影響しています。
特に学校教育や人材育成いった教育現場で多く見られる傾向です。そのこと自体は誤りではありません。
しかし、教育現場や世間では大きなはき違えが起こっています。
価値観が合えば人に優しくしてあげることは意外と容易です。しかし価値観は多様です。
価値観の違いから意見の違いが生まれることも当たり前です。
意見の違いがあって相いれない事が起こったり、
又は議論として違いを批評する事は悪いことではありません、自然なことです。
もう一歩踏み込んで議論の場でそれぞれの意見を否定、批判する事も悪い事では本来無いはずです。
そんな善意に満ちた議論やディベートの中でそれぞれの違いや本質を明確化したり、時に互いの価値観や意見が寄り添い変容したりもするものです。
そんな自然なコミュニケーションの中には悔しさや一時的な否定感や悲しい思いも情動(エモーション)として沸き起こります。
(勿論、物の言いが人格否定や不必要に侮蔑的であったり、攻撃的であるような事は問題外です。)
そんな心の動きも自然なことであるという人としての認識や感性(フィーリング)がその情動の過ちを気づかせてくれます。
心が揺れ動くトレーニングでもあるのです。
その意味で違いの認識や批評、否定も批判も自然な事でなければならないのです。
意見の出しやすさと言う意味で一時的に否定批評を抑制する事は大切な事ですが
その後の本質の議論コミュニケーションが不足してはならないのですが、現実の教育現場にはそれはありません。
そこには、
持論が否定されるという自然な心の動きを、
自尊感情の否定だといった勝手な認識やレッテル貼りが存在します。
そんな間違ったレッテル貼りが人としての自然な感性を狂わし、正しい心の働き(適応機制)を阻害していくのです。
いつまでたっても真の問題解決(合理的機制)ができない人材を作り続けているのが今の教育現場なのです。
現実問題、そのような社会では表向きには批評批判はしませんが心の中の違和感は残っていきます。
その違和感を何故言ってはいけないか?
それは相手の自尊心を傷つけるから?
人と違うと言われる事や人と違うと言う事は自尊心が傷つく事なのだと言う勘違いを暗に示している事でもあるのです。
持論を認められなかったものは単なる自己否定、人格否定のように自らに間違ったレッテルを貼ってしまうのです。
そのような教育現場をとりまく空気感をマスコミやその取り巻きが無責任に作り出しているのです。
そんなレッテル貼りになんの疑問も抱かず、
これが優しさだと信じ込むリアリティのない教育現場や世間がそこにあるのです。
自己肯定感に満ち個性を認め合うとは
違いを確認し合う場の議論や検証、コミュニケーションを自然なことと肯定することから始めなければなりません。
そのことの繰り返しが反社会的かどうかの最低限の安心安全のフィルターを通すことでもあり、
そこで認められなかった意見や価値観も反社会的価値観でない限り
自己や他人を肯定する大切な個性として受け入れることができる土台となっていくのです。
教育の場で見られる相手を否定しない会議や研修スタイルは、
意見の出しやすさという観点がいつの間にか
それが人を傷つけない優しさだという観点にはき違えられ歪曲されてしまっているのです。
意見を出し合った後の是々非々の議論を安心してできる土台作りが
ストレスに負けない耐性を持った自己肯定感を作り出していくのです
優しさのはき違えその2
ストレスを与えないことや我慢をさせないことが優しさであるといった履き違えに満ち溢れている。
適度な欲求不満を克服する事でストレスから脱却する正しい適応機制能力を獲得し
その先の合理的な解決に自らを導く事が大切な心の教育である事を無視しているのです。
大切な事は適度なハードルを与える事。
歪なハードルを設定しないことへの
歪な対処療法としてハードルを設定しない無責任な事を皆さん許容してしまっているのです。
過度なストレスは取り除かねばなりません、
適度なストレスは人のモチベーションでもある事は心理学的に定説です。
人それぞれの適度がある事の難しさから
我々大人や社会は逃げてはならないのです。
ましてこの適度なハードル設定のプロが教師や指導者と言われる者の資質でなければならないのです。
目の前の克服すべき、克服出来る障壁に
永遠に逃避、退行、攻撃を繰り返す事を許容するかのような優しさは人を永遠に無力化し、いずれ暴発を誘発していくのです。
長年の積み重ねが暴発の時期に達したのかもしれません。
社会全体で考え直す時期に来たことは間違いない。
近田直人の「先生どないしたらええのん?」(毎月第3金曜日22時30より)
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