昭和時代、現在の様に観客の中に団員を配置し、観客を先導する様な応援スタイルが全ての大学応援団で確立していた訳ではありません。例えば我が校の場合ですと、硬式野球の応援に駆け付けたところスタンドには応援団とファールボールを拾う野球部下級生しかいないというのが常でありまして、先導すべき観客がおりませんでした。よって応援も試合の流れに合わせたリーダー公開の様な感じになってしまう訳であります。
ところがアメリカンフットボールの様に観客が多数、駆け付ける様な会場になりますと、応援団側は不慣れという問題があり、また一般学生側の方では「誤って團旗の前を横切ると恐ろしい目に遭う」等といった都市伝説があった様でありまして、スタンドは応援団とそれ以外といった形に分かれてしまうという珍事が発生致したりしておりました。応援団側も協会の再三の勧告などお構いなしに太鼓一張での応援を継続しておりました。
【昭和61年】
その後、平成2年に応援団内に吹奏楽部を発足させるに至りますが、部員や楽器を揃え組織の基盤を作るのに歳月を要し、他校応援団と同等の3部一体の応援は出来ないまま、応援団の活動休止を迎えるに至ります。
チアリーダー部や吹奏楽部といった昭和の応援団とは全く性格の異なる団体と協調し応援活動に幅を持たせる事は、組織力そのものを高める効果がありました。その変革の波にどう対処出来たかで応援団の命運を左右した様に思います。
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会