昭和53年になり、我が團は24代目大本團長の治世となりますが、大阪経済大学應援團は目覚ましい躍進を遂げます。團員は凄まじい勢いで増加し、関西でも1、2を争う勢力となりました。
昭和51年当時は20-30名規模の應援團が全国的な平均でありました。我が團は1学年8名平均、総勢30名程度という陣容でありましたが、映画上映を境に下降傾向に転じ、昭和53年入学の團員より1学年平均6名と、1回り所帯が小さくなりつつある途上でありました。これは我が團に限らず、映画や劇画の破天荒なイメージを好奇の目では見ても、自らが実践する場としては敬遠する空気があった様であります。その中、大阪経済大学は逆に勢力を拡大し、1学年10名強、総勢40-50名という当時としては大所帯の應援團に生まれ変わっていたのであります。年代や学生数を鑑みれば驚異的な数字であると言えましょう。
昭和51年当時は20-30名規模の應援團が全国的な平均でありました。我が團は1学年8名平均、総勢30名程度という陣容でありましたが、映画上映を境に下降傾向に転じ、昭和53年入学の團員より1学年平均6名と、1回り所帯が小さくなりつつある途上でありました。これは我が團に限らず、映画や劇画の破天荒なイメージを好奇の目では見ても、自らが実践する場としては敬遠する空気があった様であります。その中、大阪経済大学は逆に勢力を拡大し、1学年10名強、総勢40-50名という当時としては大所帯の應援團に生まれ変わっていたのであります。年代や学生数を鑑みれば驚異的な数字であると言えましょう。
【大阪経済大学應援團3回生(昭和55年)1学年だけで11名】
この大阪経済大学の躍進で関西応援団業界の勢力図が一気に塗り替わりました。その一方で阪南大学や大阪産業大学では應援團が解散する事態が発生し、應援團業界では明暗がはっきり分かれる時代でもありました。
その後も解散する應援團、勢力を減退させる應援團が増加する中、大阪経済大学應援團は大所帯を維持させますが、平成の声を聞く前に諸般の事情で歴史ある團旗を降ろしております。
昭和50年代初頭に映画「嗚呼!花の応援団」を契機に俄かに巻き起こった応援団ブームは結果的には応援団業界には逆風になりました。それまで取り上げられる事もなかった些事が大袈裟にクローズアップされたり、逆に応援団業界自身も世間の注目に舞い上がったと言われても仕方のない振る舞いがあったのも事実であります。
ただ当時の新聞社各社に大学生時代、学生運動に励んでいた学生が就職する層が一定数、存在しておりまして、彼らは学生時代、闘争を繰り返した応援団に遺恨を持ち、私怨で必要以上に悪く書く事があった事を割り引いて考えなければなりません。【以下次稿】
【昭和50年代前半の新聞記事】
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会