大阪経済大学應援團【4】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

昭和51年に「嗚呼!!花の応援団」、第2作「嗚呼!!花の応援団~役者やのォー~」が、翌昭和52年には第3作「嗚呼!!花の応援団~男 涙の親衛隊~」が、半年の間に怒涛の如く上映され、俄かに世間への応援団への注目が高まりました。この間はマイナーな我が團にすらTV出演のオファーが立て続けにあった程でありました。
 
そんな昭和52年の出来事であります。当時は我が團は山本23代目團長の治世でありましたが、大阪経済大学應援團より幹部交代状が届きます。この当時、通常、関西の私立大学応援団は、各種競技の秋のリーグ戦応援、学園祭関連行事が終わる秋~冬にかけて幹部が3回生に跡目を継承させる幹部交代を執り行うのが一般的だった訳でありますが、随分と早い時期にそれは届いたのであります。
得てして通常の時期に幹部交代を行わないという事実は、良きにつけ悪しきにつけ何かがあった時とされております。様々な憶測が飛び交いますが、この時、大阪経済大学應援團で跡目を継承したのが中野義弘團長だったのであります。
 
当時、我が團は準硬式野球で対戦し応援合戦を行ったり、大阪経済大学應援團とは交流がない訳ではなく、加えて中野團長は神戸市民であり、我が團でも山本團長、谷田副團長以下、個人的な交友もあった訳であります。そのルートで漏れ聞こえてくる噂によれば、「中野團長が改革に着手した」というものだったのであります。
 
中野團長は当時の世間一般が想像する應援團長にピタリと符合する風貌でありました。その一方で非常な社交家でありまして、実に多様な人脈の広さを誇っておりました。そういうリソースを最大限、活用し自團の育成に励んだ訳であります。一見すると泰然自若の構えで御簾の奥に鎮座するタイプの様でありますが、その実は非常に多才であり、先頭に立って自らが範を示し團員を牽引するタイプの團長であった様であります。
就中、人心を掌握する力に優れ、團員に目標を与え士気を高揚せしめる事に成功し、近畿大学、大阪商業大学に比肩する強力な應援團に飛躍すべく團員が一致団結したのであります。【以下次稿】
【大阪経済大学應援團(昭和55年)】
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会