昭和51年 応援団事情 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

皆様のお陰でアクセス数がかなり伸びましたので、サンデー毎日に関する記事について考察したいと思います。
3ページにわたって紹介したページに掲載されている各応援団の人数を拾ってみます。
立命館大学  31名
学習院大学  15名
国学院大学  20名
国士舘大学  21名
明治学院大学 13名
日本大学   40名
拓殖大学   16名
関西大学   21名
東京農業大学 27名
日本体育大学 21名
大阪商業大学 35名
東京大学   25名
【参考】
甲南大学   30名
近畿大学   60名(昭和51年10月読売新聞)
今で言うリーダー部のみの人数になります。たまたま該当記事の約1か月前の読売新聞に近畿大学應援團に関する記事があり、そこに団員数の記載がありましたので、参考として追記しました。昭和51年は我が團で言えば二十二代目に治世でありまして、長田團長以下8名の幹部に統率された團員数は30名となっております。
 
映画「嗚呼 花の応援団」が上映された、言ってみれば応援団ブームの真っ只中、100名単位の大所帯かと思われていた方もいらっしゃるかと思いますが、実情は上記の様に20-30名の団が多かった様です。
 
誤認を招いた原因としては、映画の原作である劇画の方では、例えば関西最大の応援団として描かれている雲竜大学は200名の団員を擁している等の記載があったり、昭和40年代の応援団事情が描かれていた事もあろうかと思われます。昭和40年代は実際に東の日本大学では総数では数百名の規模であったり、西の近畿大学では百名を下らない団員を擁していたとの記録もあったりと各団共に勢威を誇っておりました。もっと学校規模の小さい我が團でも50名程度の団員数で推移しておりましたので、後は推して知るべし、という訳であります。
 
さて、昭和51年の団員数を見ると、学生数が5、6千人という決して規模の大きい大学ではない我が校が、全国水準に対しても多い部類に入る団員を抱えていた計算になりますので、当時の我が団の団員獲得力は高かったと言えると思います。その時代に合った、と言うよりはその時代の若者に魅力的に思ってもらえる組織作り、人間作りが何よりも肝要だという事なのでしょう。
【二十二代目甲南大學應援團】
 
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会 広報委員会