昭和50年の声を聞く頃には應援團再建は軌道に乗り、團員数も20名を越える様になり、更に増加する勢いを示しておりました。代目で言えば二十代目幹部が創團20周年記念式典を挙行する頃には、再建活動は目鼻はついたと思われます。
その後、多少の紆余曲折はございましたが、大学全体の学生数の割には人数が揃った應援團を運営出来ておりましたが、三十代目幹部となる代目の團員が二回生に昇進した直後、全員、脱走してしまうという大事件が起こりました。再び再建活動の始まりとなった訳であります。
人員不足は組織維持に多くの労力が割かれ、活動の低迷を招きました。またチアリーダー、吹奏楽部を加えた応援手法が主流になりつつある中、時流に乗らなかった結果、太鼓の使用を禁ずる競技が増え応援に行ける競技が制限されるという状況を招来しました。
また学内では、体育会でもなく文化会でもなく、かと言って独立した大きな権限を持つ事もない微妙な立ち位置のまま推移致しておりました。
遂に栄光ある團旗を降ろす時が来たかと思いきや、再び團勢が上昇の気配を見せた平成元年、笹井先生が顧問を辞任され名誉顧問に就任されたのであります。
勇退前、最後に應援團顧問として執筆して頂いた文書が下記であります。

文中「過酷な心身の鍛錬の中で自己を磨く場と化している。団員諸君はそれを是とし、、」という一文がございます。活動が低迷せざるを得ない中、昭和の価値観で言う「男を磨く」という事を「是とせよ」という笹井先生のお言葉に当時の團員達は奮い立ったのであります。
一度ならず二度までも應援團再建にお力添え頂きました笹井昭夫先生に衷心より厚く御礼申し上げる次第でございます。
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会