本多團長が活躍した時代は神戸三宮は梁山泊の如き様相を呈していた訳でありますが、そんな強者揃いの中、本多團長もちょっとした顔だった様であります。
無論、先日、御紹介させて頂いた初代團バッジからも分かります様に伯父である本多仁介親分の威光は無視出来なかったのでありましょうが、激動の時代、当人に器量がなければトップは務まらなかったのだと思われます。
後に甲南大学生は遊びが上手だと巷間では言われていたそうでありますが、この当時は應援團ほど夜の街で遊んでいる甲南生はいなかった事でありましょう。
三宮にはまだ「日本一長い」と言われた闇市は健在でしたし、国際マーケットやジャンジャン市場と呼ばれる怪しげな一角もありまして、不用意に酩酊しようものなら身ぐるみ剥がされかねない危険と隣り合わせの街でした。酒豪揃いの当時の團員は、意に介することなく飲み歩いておりました。
キャバレーも「新世紀」以外にも「紅馬車」「踊り子」といった店は團員達に愛されておりましたし、今となっては懐かしい響きのアルサロ「サンスター」も我が團を語る上では欠かせません。
【アルサロ「サンスター」】
三宮は京都とも大阪とも違う独自の文化で、夜の街も異彩を放つ店が多く、まだ大学生には敷居が高い時代でありましたが、本多團長がこの敷居を撤去したとも言えましょう。
またアルサロ同様、今では見かけなくなったダンスホール「クローバーダンスホール」も本多團長のお気に入りでした。この店は戦後、三宮で国際ギャング団と恐れられた菅谷政雄親分の大取りもので有名になった店であります。三宮ロビンフッド菅谷政雄vs兵庫県警 秦野章刑事課長(後に参議院議員)の死闘は語り草になっていたのであります。
この店に通ううちに本多團長は学内でダンスパーティーを催す企画のヒントを得て、我が校で初めてのダンスパーティーを開催するに至ります。
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会團史編纂委員会