昭和41年の少林寺拳法 第4回関西学生大会の観戦に当時の我が團の團員が観戦に伺っておりまして、その際のパンフレットが出て参りましたので、別途、Facebookの方でいくつか画像を紹介致しております。
当時は我が團は十三代目(辻宏團長)の治世でありまして、團員も40名を超える所帯でありましたが、前年度に起こした不祥事により、応援局と改称し当局の追及を躱して居る最中であります。実質上、組織の存続は認められましたが、公式行事への参加は出来ず、友部である少林寺拳法部が大会に出場と相成りましても「観戦」という体を取らざるを得なかなったものと思われます。
さて、この時、少林寺拳法部は創部四年目となっておりますので、勃興期のエネルギーに満ち満ちている頃であります。我が團も40-50名の所帯を誇り、学友会の中では最大団体でありましたが(当時の應援團は学友会の直系団体でありました)、少林寺拳法部は更に多い60-70名の構成員を擁し体育会最大の勢力を誇っておりました。当時、伝統ある数々のクラブより少林寺拳法部の方を魅力に思う甲南生が多かったという証左でありましょう。
我が團を含め多くのクラブは昭和26年の甲南大学建学より程なくして設立されておりますので、少林寺拳法部は約10年、発足が出遅れた計算になります。
出遅れたという事実は様々な面でハンデとなる事がありまして、ただでさえ狭い甲南キャンパスの中での練習場を確保せねばなりませんし、各部共に1円でも多く予算を欲しがる中で後発組が声を大にして予算を獲得せねばなりません。
本来であれば稽古や組織固めに没頭したいところでしょうが、こういう煩雑な事柄でさえ勃興期のエネルギーというものはそれらを組織の活力に変えてしまう勢いがあります。事実、我が團も発足した昭和29年当時においては学内最大の構成員を擁する団体でありまして、学内外で数々の無理難題を押し通す事が出来たのも、この新興組織ならではの底知れぬエネルギーがあった為と言えると思われます。【以下次稿】
本来であれば稽古や組織固めに没頭したいところでしょうが、こういう煩雑な事柄でさえ勃興期のエネルギーというものはそれらを組織の活力に変えてしまう勢いがあります。事実、我が團も発足した昭和29年当時においては学内最大の構成員を擁する団体でありまして、学内外で数々の無理難題を押し通す事が出来たのも、この新興組織ならではの底知れぬエネルギーがあった為と言えると思われます。【以下次稿】
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会