勃興期には後世からでは想像もつかないエネルギーが学内に満ち満ちておりまして、実感として無限の可能性と「目前の障壁を打ち倒さん」という多分に若者特有の気負いが含まれた、高らかな意気を学生の一人一人が内に秘めていた時代であります。
山下先輩はそんなエネルギーを表に出すタイプではありませんでしたが、内に秘めれば秘める程、その意気は増幅していったものと推察されます。
四回生になった際、かつての空手道部の2学年後輩である本多孝雄先輩が新たに應援團を発足させる事に成功しました應援團発足にあたり本多先輩は山下先輩のところに何度も足を運んで、團長就任をお願いされました。
当時は大東亜戦争以前の教育、社会の中で育ってきた世代でありますので、長幼の序を重んじる気風がまだまだ残っていた時代でありまして、應援團の性格上、全学生に向かって号令をかけるには最高学年者でないと諸事、不都合が生じる訳であります。
当時は大東亜戦争以前の教育、社会の中で育ってきた世代でありますので、長幼の序を重んじる気風がまだまだ残っていた時代でありまして、應援團の性格上、全学生に向かって号令をかけるには最高学年者でないと諸事、不都合が生じる訳であります。
大勢の人間を動かすトップに求められる資質は様々、考えられますが、その一つはやはり人格でありましょう。山下先輩は、九州男児らしい激しい闘争心と強靭な意思を、石の如き沈黙で鎧い、独特のオーラを醸し出しておりまして、当時のトップとして相応しい人物でありました。
さて、山下初代團長が歴代でも伝説の團長として語り継がれる理由としては以下の点が考えられます。
①初代であること
②大学の黎明期で資料が乏しく正確な足跡が不明瞭であること
③33歳の若さで他界された為、実際にお目にかかった應援團関係者は一部の年代に限られていること
④隻腕であったこと
山下先輩の人生は分かっている範疇だけでも波乱万丈でありまして、戦後動乱期を逞しく歩まれた事が窺えます。左腕がない事から「独腕竜」との異名もあった様でありますが、これも先天性のものではなく在学中のあるトラブルにより失ったものであります。そして卒業後も、多くの卒業生が家業を継ぐ中、独立開業の道を選び郷里の長崎で成功を収めたというのも当時の甲南生としては異色でありました。
①初代であること
②大学の黎明期で資料が乏しく正確な足跡が不明瞭であること
③33歳の若さで他界された為、実際にお目にかかった應援團関係者は一部の年代に限られていること
④隻腕であったこと
山下先輩の人生は分かっている範疇だけでも波乱万丈でありまして、戦後動乱期を逞しく歩まれた事が窺えます。左腕がない事から「独腕竜」との異名もあった様でありますが、これも先天性のものではなく在学中のあるトラブルにより失ったものであります。そして卒業後も、多くの卒業生が家業を継ぐ中、独立開業の道を選び郷里の長崎で成功を収めたというのも当時の甲南生としては異色でありました。
そして再びトラブルに遭い33歳の若さで非業の最期を遂げられます。こういった足跡だけを拾うだけでも山下初代團長の規格外ぶりが窺えます。
我々はこういった偉大な先輩の労苦の結晶である應援團で大学4年間の生活を実りあるものとして過ごさせて頂きました。いつまでも歩みを止めている場合ではなく、形は変わっても志を受け継いでいかねばならないと、山下先輩の郷里、長崎で強く思った次第であります。先輩の御冥福を御祈り申し上げます。
【山下正和初代團長】
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会