先だって所用で九州に赴く機会があり、時間が出来ましたので、我が應援團初代團長の山下正和先輩の郷里である長崎を訪れました。
以前も我が應援團初代團長である山下正和先輩に関する記事を書かせて頂きました。以前の記事の繰り返しになりますが、山下初代は昭和26年、甲南大学建学と同時に長崎から入学して来られました。旧制高校の実績はあるものの、一地方都市にある新設大学である甲南に行こうというのは、後世の我々が思うより遥かに一大決心を要したた事でありましょう。
今回は博多よりJRの特急で長崎に赴いたのでありますが、2時間弱の道程でありました。山下先輩の時代は汽車か船しか移動手段がなく、長崎から神戸というのは現代で思うより遥かに遠くに感じられた事でありましょう。
創成期の甲南は学生集めに苦慮し、西日本全域で学生募集を行っていた為、山下先輩の様に九州から来神する者、山陰や四国から来る者も大勢おられた様であります。
ただ幼稚園から大学までの一環教育を目指す甲南の方針からすればやはり主流は甲南高校出身者でありまして、それ以外の学生はそれなりの外様感はあった様であります。
そういう意味でも山下先輩はやはり異色の存在でありましたが、無口な上に目立つ事を嫌っていたので、120名しかいない1期生の中でも有名人という訳でもなく、九州から来た無口な空手の男、という程度であったと思われます。
【建学当時の正門】
山下先輩は極めて口が重く、その雰囲気も相俟って近寄り難い存在だった様です。一つには郷里の長崎訛りを気にしていた節があります。ただそんな事など意に介さない強さがある事は後年、誰しもが知るところでありますが、意外と人見知りな面がありまして、知己が全くいない神戸に一人で来てより、無口ぶりに拍車がかかった様であります。
そんな山下先輩にとって入部した空手道部はぴったりだったと伝えられております。一人黙々と稽古に打ち込み、無心で突きや蹴りを放つ事は性に合っていた様であります。【以下次稿】
【空手部の稽古】
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会團史編纂委員会