先日、我が團の山下正和初代團長に関する記事を、記載させて頂きましたが、話を拾い集める過程で、垣間見えた当時の我が團の横顔を書いてみたいと思います。話の主人公は山下團長の跡目を継承した本多孝雄二代目團長であります。
本多團長は昭和28年、建学3年目の甲南大学に3期生として入学しました。入学当初は空手道部に入門しましたが、他校で活躍する應援團に触発され應援團結成の活動を開始し、同好会組織を立ち上げます。
翌昭和29年には正式に甲南大學應援團を旗揚げし、2回生ながら副團長に就任致します。また山下初代團長が4回生である以外は、執行部は殆ど2回生で担うという極めて若い組織でありました。
甲南大学では昭和26年の建学より昭和30年代初頭にかけて多くのクラブが旗揚げしておりますので、應援團もその中の一つでありますが、1年にも満たない期間で旧制高校時代にはなかった應援團という組織を立ち上げた手腕は見事と言えましょう。
本多團長の周囲には多士済々の面々が集まり、優秀な参謀として其々の得意分野でその才覚を如何なく発揮した結果であると言えます。またそんな一癖も二癖もある顔触れをまとめ上げた本多團長の統率力は卓絶していたと言えましょう。
当時の三宮での人気店であるキャバレー「新世紀」に團員を引き連れ、1ケ月の生活費を一晩で飲み尽しても、残りの29日の食事の面倒を見て下さる旦那衆が市井にはいらっしゃいました。
もっとも当時の「新世紀」と言えば、進駐軍の将校や闇市でのし上がった成金社長が贔屓にする高級店でありまして、大卒の初任給をそっくり注ぎ込んでも幾許も飲めなかったと思われますので、お店にも随分と可愛がって頂いていたものと推察されます。
事実「新世紀」のホステスの中にも本多團長のファンが多く、その中には後日、神戸でスナック等を開業された方も多々いらっしゃいます。
遥か後年、團員が三宮で何気なく一見のスナックに入りますと、ママは突如入ってきた学ラン姿に不審そうな視線を投げかける訳ですが、胸元に「甲南大學應援團」と記載されたバッジを見つけるなり「何や、本多はんの後輩かいな♡」と一転、歓待された、などという事象が結構な確率で発生するのであります。
【三宮「新世紀」】

中央の森が生田神社。下の方にあるドーム型の建物が新世紀(現在の東急ハンズがある場所)
事実「新世紀」のホステスの中にも本多團長のファンが多く、その中には後日、神戸でスナック等を開業された方も多々いらっしゃいます。
遥か後年、團員が三宮で何気なく一見のスナックに入りますと、ママは突如入ってきた学ラン姿に不審そうな視線を投げかける訳ですが、胸元に「甲南大學應援團」と記載されたバッジを見つけるなり「何や、本多はんの後輩かいな♡」と一転、歓待された、などという事象が結構な確率で発生するのであります。
【三宮「新世紀」】

中央の森が生田神社。下の方にあるドーム型の建物が新世紀(現在の東急ハンズがある場所)
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会團史編纂委員会