トシオくん、と申しますと映画「呪怨」がまず頭に浮かびますが、今回は呪怨とは全く関係がございません。ついでに申し上げると坂田利夫も江木俊夫も関係ございません。
ここ数日、渡瀬恒彦さんの事を書いているうちに思い出したある我が團の裏面史がありまして、忘れぬうちに記述しておこうと思い立った次第であります。
昭和32年4月 甲南大学にトシオくんと呼ばれる青年が入学して参りました。向こうっ気の強そうな生意気盛りの青年で、当時、我が校ではこの手の新入生は問答無用で應援團、空手道部に無理矢理にでも入門させておりました。
当時、應援團は上山四代目の治世でありまして、新入生を迎える1ヵ月前に、実質的な創團者である本多三代目が卒業したばかりであり、より多くの團員を確保し、團勢を益々、盛んたらしめようという意気に燃えている時でありまして、トシオくんは哀れ、應援團に籍を置く羽目になったのであります。
さて、このトシオくんは、姓は地道と言う割には本人の言動は極めて直情径行的でありまして、暴れん坊ぶりには上級生も手を焼いていた様であります。
その反面、社交家であり、夜の街には詳しく、神戸の裏町にあった飲み屋や博打場、女郎屋が立ち並ぶ、酒や得体の知れない肉を焼いた異臭、違法薬物の甘ったるい匂いが漂う極めて怪しい街にも学ラン姿で平気で出入りしており、相応の顔であったと言うのですから、なかなかのものです。
「飲む打つ買う」には熟達している上に喧嘩っ早いという尖った彼も應援團の荒っぽい修業で次第に人格にも磨きがかかり、当時の幹部の間では「トシオが團長になる頃には、我が團はどれだけ大きくなっているか分からん」と言われる程の逸材であったと言われております。本多團長という稀代の惣領を失った後の救世主とも目されていたのであります。【以下次稿】
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会團史編纂委員会