
鶴田浩二には様々な横顔がありまして、歌手としても多くのヒット曲を持ち、左手を耳に添えて歌う独特の歌唱法は広く知られておりました。また自らの戦争体験から来る情念を注ぎ込んだかの様な戦争映画における演技もその存在を特徴づけております。
また南方で土に埋もれたままのかつての戦友の遺骨収集に情熱を燃やし、自らも収集作業にあたっておりました。
應援團業界に関して言えば、鶴田浩二は関西大学の校友会に名を連ね、関西大学の為に色々と尽力した様が伝えられております。関西大學應援團においてもOB会の名誉会員の様な位置づけで、應援團の行事にも列席し、他校の團員は仰天したものでありました。
また関西大学の応援歌の一つである「王者関大」は鶴田浩二の作詞でありまして、作曲は鶴田浩二のヒット曲の数々を手掛けた吉田正という豪華な顔ぶれであります。
鶴田浩二を先輩と仰ぐ事が出来る関西大学を羨ましく思った應援團員は少なからず居た事でありましょう。
そんな鶴田浩二が幽明堺を異にしたのは昭和62年6月16日の事であります。翌7月には石原裕次郎が亡くなっておりますので、昭和62年という年は昭和と共に青春を歩んだ者にとっては節目の年だったと言えるかもしれません。
故人のご冥福をお祈り申し上げます。
【昭和48年関西大学関係者によるパーティー会場にて】

甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会