今回は生前、先輩と親交が深かった弊会 谷田先輩に追悼文の執筆をご依頼致しました。
謹んで先輩の御冥福を御祈り申し上げる次第でございます。

享年63歳という若さで、このたび幽冥境を異にされた大森康正先輩のお通夜を訪ねて参りました。28日(日)午後6時、会場「阪神平安祭典会館」(尼崎市)には故人のお人柄を偲ばせるように百数十人の参列者が見えられました。そこへ我等團OB会からは同期20代目の方々、2年後輩の方々に加え、3年後輩の私も参列させて頂きました。
大森先輩の在学された20代目の頃は、まだ学生運動の余燼がくすぶる時代で、当時甲南大学も左翼学生主導によるバリストが行なわれたものの、当時の学友委員会が大学当局に早々と敗北宣言を出したという一件は、別途記載されているとおりです。その際、委員長を團でかくまったり、團長の私邸で学友委員会が開催されたり、また委員長の拉致を目論む左翼学生が團の看板を奪いに攻撃してくるという事件もあったそうです。
そのような時代に1、2回生として在学して、修羅場をくぐってこられた大森先輩ではありますが、その20代目に1回生として入團した私にとって氏は至って優しく木目細やかな性格の方であられました。役職は幹事長・会計部長を務めておられました。20代目記念乱舞祭の開催や記念誌「至道」の発刊など、お金のかかる行事が目白押しで、OB会との打ち合せや大学との折衝などに追われ、さぞご苦労されたことと拝察します。
思い出すのは私が1回生の夏合宿、場所はハチ北高原の「ヒュッテこだま」です。全員が発声練習、基礎練習に苦しんでおりました。高原の両端に何百メートル離れて向かい合い、双方から発声を繰り返すという場面がありました。同期の1回生が「声、届くかなあ」と小声でつぶやくのを背後で耳にされた大森先輩が、普段とは別人のような怖い表情で「声、届く!」と大声で喝を入れられ、その場がピシッと緊張に凍り付いたのを、今も忘れることができません。
ご卒業後は「関西スーパー」に入社され、伊丹や尼崎の各店舗、また営業本部にて責任ある立場を転属して来られたそうです。伊丹店や立花店で私が買い物(さいわい万引きではありません。冗談です)をしている所を何度も見ておられたそうです。後年「お前、よく見るよ」と、島根なまりの温かい声でにっこりと微笑まれた優しいお顔を、今日も思い出している私です。
どうか安らかにお眠り下さい。合掌
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甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会尼崎支部長 谷田透(23代目)