そして最も目を引くのが「応援団」ではなく「応援局」と表記されている点でありましょう。何やら学内での格が高かった様な印象を受けないでもありませんが、事実は正反対でありまして、降格されていたのが真相であります。
昭和40年に我が團は全国紙各紙に掲載される様な大事件を起こし、活動休止を余儀なくされます。永久解散を言い渡されても不思議ではないところを時の幹部や関係者の皆様の努力で活動休止に留める訳でありますが、以降2年間、大学の公認団体からは除外され、応援団を名乗れず、止むなく「応援局」を名乗っていたのであります。代目で言えば13代目、14代目は応援局だった訳でありますが、対外的には「甲南大學應援團」を名乗り、責任者は團長であり、リーダー部長もいれば親衛隊隊長もいた訳ですので、何とも逞しく逆風を乗り切り、この摂津祭の翌年には応援団として復活致しております。
演目の横に演者の名前が記載されておりますが、通常は「團長 〇〇」といった感じで役職が記載されるものでありますが、上記のような事情で名前のみが記載されている訳であります。学園歌の演者である倉光先輩は我が團十四代目團長として記録されております。上記の様な本音と建前があった訳ですので、書けなかったというのが真相でありましょう。
それにしてもそもそも非公認団体が他の正式な各部と対等にステージで時間を頂けるのですから、何とも良き時代であったと言えましょう。
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会團史編纂委員会