甲南大学吹奏楽部黎明期【前編】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

過日、ご紹介した我が校文化会吹奏楽部の紹介ページ を拝見しますと、創部10年との記載があり、少々、気になりましたので、その成り立ちを敢えて書いてみたいと思います。


不思議な事ではありますが、文化会には多数の音楽系団体がございましたが、長く吹奏楽部に該当する様な組織がございませんでした。昭和から平成にかけての期間、應援團が駆け付ける様なメジャーな競技では応援手法も固まりつつあり、中にはゲームの進行の妨げになるとして太鼓の使用が禁止されたりするケースが出て参りました。

他校ではリーダー部、チアリーダー部、吹奏楽部の3部構成で応援するスタイルが定着しておりましたが、我が團は昔ながらの太鼓一張を担いで応援するスタイルでありまして、太鼓を禁止されると何も出来なくなる訳であります。


そういった必要性に迫られた部分もあり、吹奏楽部を発足させようという動きが顕在化したのが平成元年(35代目)であります。團員減少傾向にも歯止めがかかり再び増加傾向に転じる等、團勢が盛んになりつつある時期でもありますので、應援團組織の近代化という狙いもございました。文化会に吹奏楽部があれば協力体制を模索するのが近道なのでありましょうが、先程も述べたように該当する組織がありませんでしたので、一から創建する必要に迫られたのであります。


團員が部員募集のビラを撒いたり、立て看板を設置したりして吹奏楽部員勧誘活動が開始されました。我々が客観的な論評を行う事は難しいのではありますが、当時はまだまだ應援團は学内では怪しい集団、物騒な集団と云った評価が一般的であった様に感じます。その應援團が募集しても訝しまれ、勧誘は難航を極めました。たまに興味を示す学生がいない訳でもなかったのでありますが、ゼロからのスタートだと知ると興味を失う傾向にありました。

我々では専門的な事は分かりませんでしたが、所帯が大きいほど、活動の幅、演奏できる楽曲の幅も広がるそうで、部員ゼロの状態からやりたいという者はなかなかいなかった訳であります。


当時の下級生は毎日、勧誘の成果と今後の対策を幹部に報告する義務がありましたが、芳しい成果は全くなく日が暮れて参りますと胃が痛くなる毎日を送っておりました。


甲南大學應援團OB会

八代目甲雄会広報委員会