リーダー部列伝【8】(14) | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

<第8回 求道者 森下暢夫(三十七代目甲南大學應援團副團長)【14

時の幹部衆は営業マンとして或いは外交官として、應援團の活動の場を開拓しておりました。大学の最寄り駅であるJR西日本摂津本山駅、阪急電鉄岡本駅の駅長宛に唐突に訪れ「最終電車が出た後の駅構内の掃除をさせて欲しい」と申し出てみたり、神戸市役所に赴き「神戸祭のパレードに参加させて欲しい」とお願いしてみたりと、思いつく限りの事を試しておりまして、無論、丁重にお断りされるケースも多々ありましたが、まずは話してみなければ可能性の有無など分かりません。

その中、他校應援團との交流の復活もこの代で行われました。しばらくの期間、学習院大学以外との他校應援團とは書状のみのお付き合いという状態が続いておりましたが、この代の交流の中で他校應援團とのパイプが復活し、他校で開催される乱舞祭の見学に赴く様になりました。

團勢が回復の途上にあったとは言え、創設2年目の吹奏楽部を加えても30名程度の所帯でありまして、当時の関西の有力校應援團はリーダー部、チアリーダー部、吹奏楽部の3部構成で100名を大きく上回る構成員を擁しており、まだまだ我が團は弱小勢力であったのであります。しかしながら吹奏楽部には應援團吹奏楽部の活動を知る良い場でありましたし、親衛隊、リーダー部にとっても関西で一流と言われる應援團の舞台がどの程度のものかを目の当たりに出来るのでありますから、大いに意義深い事であった訳でございます。

他團とも下級生同士の交流が生まれ、團員其々がライバル意識から来る團員としての自我が芽生え、自ずと内部の風紀も粛正され、我が應援團は非常に充実した体制を構築するに至ったのであります。

甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会團史編纂委員会