第7回 孤塁 中村昭則(三十五代目甲南大學應援團團長)【7】
3回生になった中村團長は実質上、リーダー部のトップとなり、自らもリーダーの研鑽に励む傍ら、後継者の育成にも注力せねばならぬ立場になりました。1名だけの代目でありますので、1年が経過すれば幹部、しかも自動的に團長にならざるを得ない事は、考えなくとも分かってしまう訳でありまして、リーダー部として采配を揮えるのは3回生が最後になる訳であります。
後年、現在では多くの團において團員不足問題が深刻化し、團長が様々な役割を担う事は珍しくありませんが、当時はまだまだ20-30名のリーダー團員を抱える應援團が多数ある時代でありましたので、團長は一家一門の総帥として、或いは象徴として、軽々しく表舞台に出る事が憚られる雰囲気がありました。
乱舞祭におきましても、最初の挨拶を行い、最後の校歌の指揮を執る以外は團長は表には出ぬもの、とされておりました。故に我が團でも人数が揃っている時代は團長は学園歌の指揮しかできず、人数が減ってきてもプラス1題程度とされておりまして、最高でも2題しか演ずる事が出来ませんでした。
応援の時も腕組みでじっと戦況を眺め、時折、伝令役の下級生に指示を耳打ちし、試合開始前後のエール交換のみを行うのが團長の仕事でありまして、リーダー部としての誇りに満ちた中村團長にとっては物足りぬ内容になっていたのでございます。
3回生が事実上、リーダー部として活躍できる最後であるという悲壮な覚悟の下、中村團長は自己研鑽に励みます。「練習の鬼」と呼ばれた32代目の芹生リーダー部長をコーチとして招聘し、指導を仰いだり、引退したばかりの松田前副團長にも同様にコーチを依頼したり、と自らを高める事に努めます。
目標とするこの2人の指導を仰ぎながらも「俺はこの先輩達が達した境地に辿り着けるのか?」という想いと戦いながらの日々を送ります。何故なら目標とする2人は4回生もリーダー部として活躍する事が出来ましたが、中村團長には1年間、時間が短い訳であります。コツが分かってきた3~4回生の間の1年の差は極めて大きいと言えます。
八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会