第7回 孤塁 中村昭則(三十五代目甲南大學應援團團長)【5】
早期からリーダー部として研鑽を積んできた中村團長でありますが、リーダー部に入部したのは通常通り2回生の夏合宿の事でございます。
これは中村團長に限った事ではございませんが、後年、名手と呼ばれた人物もやはり直接、指導した先輩の目から見れば、物足りぬ点があるものでございまして、直接の指導者であった33代目松田副團長から及第点を貰うまでには相応の時間を費やした訳であります。
中村團長が2回生の時と言えば33代目梅森團長の治世でありましたが、リーダー部は松田副團長と二人しかおらず、早期からリーダー部を支える一方の柱となっておりました。松田副團長としては引退までの限られた時間の中で、自らが持つ全てを伝承する必要があります。急速且つ確実にこれらを受け継ぐ傍ら、中村團長は入團したばかりの1回生の中からもリーダー部候補生を選定し、自らが伝承したものを彼らに如何に伝えてゆくかを考える必要に迫られます。
一つの演目を任せられ、時間をかけて自らのものになる様に修練するというのが本来の在り方でございますが、優先順位としては伝承する事が高い訳でございますので、詰め込みにならざるを得なかったのであります。
こうなりますと演目一つ一つに対しておざなりになるでは、という危惧が生まれるのでありますが、中村團長がリーダー部や各演目に対する思い入れが人一倍強い人物であった事がこの危機を回避致します。一つ一つの演目に関して無謬と言っても良い習熟度を誇り、どの演目に関しても指導可能な域に達するに至るのでございます。
仮に今現在、現役應援團が復活したとして、演武や乱舞のリーダーの型を教えるとなった場合、真っ先に名前が挙がるのは中村團長であるというのも、こういう背景がある為なのでございます。
八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会