甲南大學應援團が生まれた時代【11】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

建学後、應援團が結成され、本田二代目團長が誕生した時には既に昭和30年になっておりました。1~4回生まで全学年が揃い、様々な面で制度等が確立してゆく過程にございました。


過去の写真を掲載すると頂戴するご質問なのでありますが、應援團なのに学生服を着用していないのは何故か?という趣旨なのでありますが、確かに昨日、掲載させて頂いた牡丹園での一葉も然りであります。当時は後世とは真逆で、應援團の團員のみがスーツ姿などで登校し、他の学生は学生服姿で登校するという珍現象が発生していたのであります。


無論、応援活動などの際は全員、学生服に團バッジをつけておりましたが、何故そうなったのかと言えば、揃いも揃って遊び好きだったのであります。全員が収容できる團室がありませんでしたので、大学の近所にありました雀荘「白梅」を根城に、精力的に動いていたのでありました。一日の予定を終え、街に飲みに行くとなった時、私服の方が諸事都合が良かった訳であります。


昭和40年代には大学当局より禁止されましたが、戦後よりダンスパーティー(ダンパ)というものが各大学で流行致しておりました。当時は巷で大学生を対象とした娯楽が少なく、特に高度成長期までの期間は学生に娯楽を提供するという役割を果たしていたのでございます。我が校では本田團長がいち早くダンスパーティーを開催しました。


ダンスパーティーは一つにはうまく運営すれば利益を得る事が出来ますので、各校で広く流行した側面もありますが、それ故にトラブルの温床にもなりますので、徐々に衰退して参りました。建学間もない頃の我が校では、本田團長がずば抜けた動員力を保持しておりましたので、開催する度に大盛況と相成った次第であります。


八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会