甲南大學應援團が生まれた時代【9】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

神戸の街の歴史を軸に甲南大学が建学された前後の世相について綴って参りました。前回でいよいよ昭和26年の建学にまで至り、本シリーズの使命も終焉を迎えつつあります。後は大学や学園が発表しております沿革などをご覧頂ければ我が校の足跡は一目瞭然である為でございます。

さりながらそういった言わば正史には決して載らないであろう事実をご紹介し、そういった歴史が時の流れの中に埋没する事を防ぐという目的がございますので、今しばらく建学当初の我が校、我が團の歴史をご紹介致したく存じます。


建学した昭和26年という時代は、今とは社会も学生気質も全く違っておりました。前年に発生した朝鮮戦争の影響で一大兵站基地と化した我が国では以降、急速に復興を遂げたと日本史の教科書などには記載されておりますが、その途上にあった昭和20年代後半は、放置されたままの焼け跡があったり、まだまだ敗戦色が街の至る所に見受けられておりました。

後年、学習院大学との対抗戦が開始され、東京へ始めて遠征した際、各自米持参で向かったとのエピソードが残っております。巷間では裕福な家庭の子弟が集うと噂され、事実、当時の学費は36,000円(国立大では約6,000円。大卒初任給が3,000円程度の時代)と破格でありました我が校でさえそういう状況だったのであります。


故に当時は後輩の面倒をみるとなれば、「メシを食わせる」事が最大級の愛情表現と言えるでしょう。そういう「ごっつあん」文化が後世に先輩-後輩の人間関係の一つとして成立したのではないかと思われます。


八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会