第6回 柱石 松田豊彦(三十三代目甲南大學應援團副團長)【1】
松田豊彦副團長は前回、ご紹介申し上げた芹生リーダー部長の1年下の後輩にあたります。再三、ご紹介させて頂きましたが、我が團でのリーダー部長は芹生リーダー部長以降、輩出されておりませんので、松田副團長以降、リーダーの名手である者は幾人かおりましたが、リーダー部長を継承する者はおりません。
それは團員不足の問題が原因であります。我が團には整理統合の末、幹部には8役がございましたが、それらの椅子を全て埋めるだけの人数が一学年に揃いにくくなったのでございます。8人以上おりますと、夫々の適性に応じ役職を割り振れば自然とリーダー部長も誕生致しますが、人数が少なくなりますと、團運営に必要な團長、副團長等の優先順位が高い役職から埋めて参り、結果的にリーダー部長を任命する者がいなくなる、という事態に陥る訳であります。
それでも芹生リーダー部長以降も16年間、應援團が活動する中で5名程度の幹部が活躍する代もございまして、人数的にはリーダー部長がいても不思議ではない状態であります。ただリーダー部長と親衛隊隊長は謂わば技能職でありまして、前任者より年数が経過すればする程、ハードルが高くなっていた様に思います。
さて、今回、ご紹介する松田副團長は昭和59年、高橋三十代目團長の時代に入團致しました。当時は本来の30代目團員がおらず、3回生が幹部を務める非常体制の時代でございました。以前にも触れましたが、1学年が抜けてしまうというのは應援團の組織にとってはかなり深刻なダメージがありまして、3学年しかいない当時はその苦衷の只中にあったのであります。
ほんの数年前までの様に4学年が揃い、且つそれぞれの学年にそれなりの人数がおりましたら、体験する事もなかったであろう労苦はこの年代は一身に背負っていたと言えましょう。
人数の減少は活動の低迷にも繋がる傾向にあります。散々、苦労した果てにその成果を披露出来る場も少なく、モチベーションを保つのが大変だったであろうと察せられます。
斯様な時代に松田副團長は入團された訳であります。
八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会