甲南大學應援團 親衛隊の起源【5】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

しばらく間が空きましたが、前回 の続きであります。

 

本多孝雄三代目が引退された後、上山太郎 四代目、藤尾益也 五代目(現 名誉会長)が跡を継がれ、應援團創造事業を完結させます。六代目以降は創造したものを運用する役割を負った代と位置付ける事が出来ましょう。

 

この時代、我が校の学生数も順調に増加し、各クラブ間での兼部も減少傾向に転じ、我が團もプロパーのみで運用される様になります。

親衛隊制度も三代目当時の様なアウトソースも徐々になくなって参りました。一つには既に武名を上げましたので、かつての様なトラブルも激減した為、その使命を終えた側面もございます。故にこの時代、正式に親衛隊という部隊を抱えてはおらず、あくまでも臨時編成の部隊でございました。

 

四代目以降、親衛隊の中核を担ったのが体育会空手道部であります。山下初代、本田二代目が空手道部出身という事もあり、兄弟団体として親しくしていたのでございます。

この昭和30年代には空手道部も多くの人材を輩出されておりまして、米田先輩(神戸の名士 米田一族)大久保先輩(大久保利通 の末裔、後、射殺され短い生涯を閉じます)などは著名であります。

 

甲南大学生協に建学より半世紀程、文房具を販売しておられたおばちゃんがいらっしゃったのですが「建学より半世紀に亘って日々、甲南の学生を見て来られて、印象に残る学生はいますか?」と尋ねたところ、たちどころに「應援團の本多、空手部の米田」と即答されておられました。

 

本多三代目引退後、應援團では盛時に比し團員は減少しておりましたが、應援團の親衛隊を自認する元気者揃いの空手道部と手を携える事で、勢力を維持していたと言えましょう。

 

八代目甲南大學應援團OB会

團史編纂委員会