我が應援團が五代目体制に移行したのは昭和32年の秋の事であります。藤尾益也先輩(六代目OB会長 現二代目名誉会長)が五代目を継承されました。大学も順調に学生数が増加し、各クラブも安定期に入りました。
【藤尾益也五代目團長】
藤尾團長は後に経済界で辣腕を振るわれた事で著名でありますが、現役当時からその片鱗を感じさせる大器であったと伝えられております。前年の昭和31年には経済白書で「もはや戦後ではない」という有名なフレーズが記述された事は以前にも触れましたが、社会の在り様、社会の中での大学の在り様、そして大学生の在り様も目に見えて変わって参りました。
いつの世もこうした時流の変化の中での指導者の手腕は極めて重要でありまして、時流に乗るか、時代に取り残されるか、明暗が分かれてしまいます。故にこの時期に藤尾團長を得た我が團は幸運であったと言えるでしょう。
應援團は発足3年にして組織としての体裁を整える事が出来ましたが、これは良くも悪くも本田孝雄先輩という傑出した指導者の力量に負うところが大きく、本田團長引退後、早くも團員は減少傾向に転じる等、個人の力に頼っていた弊害が出て参りました。仮に凡庸な者が舵を取っても平均点は取れるのが組織運用の妙であり、この組織力向上に努めたのが藤尾五代目と言えましょう。
この藤尾五代目の治世に三代目リーダー部長に就任したのが桂克弥先輩であります。桂先輩の泉の如く溢れ出るアイデアは創世記の我が團の一つの柱であったと言えます。 桂先輩の業績については次稿でご紹介致しましょう。
團史編纂委員会