創團当時と比べるとやや失速した感が続いておりましたが、昭和35年あたりになりますと、全日本学生応援団連盟 の影響力が大きくなり、関西でも主だった私立大学は軒並み加盟する様になっておりまして、我が校もこの時期、加盟させて頂いております。
連盟を通じ他校應援團との交流が盛んになって参りますと、他校のシステムにカルチャーショックを受け、様々な制度を検証し、自らの組織運営に反映する様になって参ります。
伝統ある他校應援團の中には明治時代に既にその源流を見出す事が出来る團もございますし、遅くとも大東亜戦争後、間もなく多くの應援團が発足致しております。我が應援團は昭和28年に産声を上げておりますので、業界では後発組でございます。
激動の時代を長く運営されて来られた他校應援團のシステムは、我が校に比べると進んでおり、大いに奮起する材料となった訳でございます。
有りがちな事ではありますが、まずは表面的な事象の吸収は早いものでございます。我が團では本多三代目が制定した團バッジ が諸般の事情で使用できなくなって以来、團バッジは制定されておりませんでしたが、昭和36年、八代目の時代に二代目團バッジが制定されます。
また当時、学帽は被ったり被らなかったりとまちまちの運用でありましたが、八代目の治世に、團員は被る事を義務付けられました。
【上:7代目幹部 下:8代目幹部 学帽と團バッジの有無が一目瞭然】
八代目甲南大學應援團OB会
團史編纂委員会