甲南大學應援團 リーダーの起源【5】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

五代目甲南大學應援團リーダー部長 桂克弥先輩は本田孝雄團長率いる二代目甲南學應援團に入團しました。昭和30年の出来事であります。 当時はまだ応援でも演武でも決まった型が成立しておらず、手を叩き足を踏み鳴らしただ声を張り上げるだけでありましたが、桂先輩の登場で状況が一変します。当初は關西學院大學應援團、關西大學應援團のコーチの下、應援團の基本的な型や演武の構成等を学びましたが、甲南大学独自の振り付けを考案したのが桂先輩なのであります。

最初に成立した型は後年「野球の応援」と呼ばれるもので、「ファイト甲南」「それ甲南」それぞれを延々と繰り返すというものであります。後、これに加え「一二三拍子」と呼ばれる型があり、これらを総称し「野球の応援」と呼ばれておりました。今日ではラッキー7にその大学の名物演武等を演じるのが恒例になっておりまして甲南大学では「必勝音頭」という演武を行うのが恒例でありました。当時はまだ「必勝音頭」(昭和42年制定)がございませんでしたので、「一二三拍子」を行っておりました。どちらかと言えば当時は「一二三拍子」は乱舞という位置付けだった様であります。

乱舞で申し上げれば当時、完成した乱舞に「甲南囃子」がございます。「甲南囃子」は九拍子の乱舞でありますが、桂先輩によれば「コンチキチン、コンチキチン」で有名な祇園囃子を参考にされたとの事であります。何故、神戸の甲南で祇園囃子なのか?と疑問に思われる事と思いますが、理由がございます。当時「京都」や「面倒」の愛称で團員に慕われていたのが、藤本祐義会計部長(3代目・後の三代目OB会長、現最高顧問)でありました。後にOB会長を継承されるだけあって、懐の深さと面倒見の良さは当時から抜群でございました。 乱舞を考案するにあたって是非、藤本先輩に因んだものを作り後世に残したいとの想いから、藤本先輩のホームグラウンドである京都をイメージして完成したのが「甲南囃子」なのであります。

「甲南囃子」はその後も長く伝承され、最後の48代目まで伝わっておりました。「野球の応援」も夏合宿において1回生は課題として覚えさせられ、その出来の良し悪しでリーダー部としての才能を見極められるという運用が為されておりました。「野球の応援」には我が應援團の型の基本形が随所に散りばめられており、リーダー部志望者には良い課題でありました。

桂先輩は一昨日、ご紹介したトレーナーを提案されたり、リーダーの型以外でも様々なアイデアを出され、甲南大學應援團の創設期~安定期にかけて欠かせない頭脳として活躍され続けられました。我が團の黎明期を語るにあたって欠かせない人物であります。

【桂克弥三代目リーダー部長】
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八代目甲南大學應援團OB会團史編纂委員会