甲南大學應援團 リーダーの起源 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

應援團には様々なリーダーの型がございます。大学により特色がございますが、我が團の場合、どういう成り立ちであるかを探るのが今回の稿の目的であります。

我が團は昭和28年に同好会として発足し応援活動を展開しておりましたが、当初は特に決まった型等はなく、ただ手を叩き足を踏み鳴らす原始的な応援だったそうであります。しかし対戦校に應援團が駆けつけておりますと、エール交換がございますし、相手校のきちんと統制された応援に対する対抗意識も芽生えて参ります。校歌にあたる学園歌、応援歌くらいは決まった型で行う必要が生じますし、花形であった硬式野球の応援ですとある程度の応援の型も必要になります。

そこで登場したのが初代から3代目まで3期、副團長を務めた名参謀 黒田治先輩であります。黒田先輩は元々は関西学院のご出身で、当時の關西學院大學應援團 に友人がおられ、その方に指導を頼まれました。我が團の團員は應援團は初めてという者ばかりでありましたので、戦前よりの伝統を誇る同團の精錬されたスタイルに随分と感銘を受けたと伝えられております。また指導に来て頂いておりました關西學院大學應援團團員も熱意に打たれ、兄弟団体である關西大學應援團 の團員も連れて来られる様になりました。伝統ある両團共に、各校における應援團の発展はひいては業界全体の発展に繋がるという大局的な見地から、かなり懇切丁寧に指導して下さりました。余談ではありますが、この縁で創團当初は關西學院大學應援團とは極めて密接な関係を構築しており、兄弟分付き合いをする團員もおりました。関西学院大学は昭和4年までは神戸に本拠(現在の神戸市灘区王子町・原田通)を構えておりましたので、当時はまだ「神戸の大学」という意識が少なからず残っており、神戸における應援團同士の連帯という意味合いもあった様であります。

黒田副團長は社交家で各校應援團とパイプを持ち、さながら当時の我が團の外交官でありました。三宮で数々の浮名を流したという風貌が何かと取り沙汰されがちでありますが、痩身ながらも180cmという当時としてはかなりの長身で、鉄の心臓と巧みな弁舌で創團期の山下初代~本田3代目までの3期を副團長として支え続けて来られました。また最初に甲南に應援團を創ろうと言い出した人物こそ、この黒田副團長なのであります。創團の功労者の一人である黒田先輩は山下初代同様、早逝されました。しかしながらその遺志は永く受け継がれております。【以下次稿】

【黒田治副團長(3代目)】

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