夕餉をとるべく料理屋に入った曽根若頭以下、應援團OB&現役幹部連合軍。多くの場合、鍋なんぞを囲んだり、回らない寿司屋が多かった昔は高級食とされておりました寿司などつまんだり致します。
曽根若頭は乾杯のビールに口だけ付けると後はひたすらお茶でありますが、川地OB、星野OB、遅れて参戦の石倉三郎似のOB諸氏はビールに始まり日本酒へ移行致します。現役幹部衆は次から次に注いで頂くビールで、箸を付ける前に既に満腹になってしまうのが常でありました。
曽根若頭を始めとするこの席に出席のOB諸兄は昭和40年代初頭に現役時代を過ごされた方々であります。昭和40年代は大学應援團全盛期の時代でありまして、4年制の男子学生がいる大学では必ずと言って良い位、應援團があった時代でございました。
当時、学生数が5千人にも満たない我が甲南大学においても、應援團員(今で言うリーダー部のみの編成)は50名はおりまして、単純計算では学生の100人に1人は團員と云う時代であります。
どの先輩もあのヤマこのヤマ乗り越えた男一代。その貫禄どころが幾人も揃うのでありますから、さしもの現役幹部も戦々恐々と相成る仕儀でございます。
「昔からの悪しき因習は、これを廃し、近代的な應援團に脱皮せなあかん」
が口癖の川地OB。しかし盃を重ねる度に徐々に馬脚を現しまして、シバいただのサラッただのカチ込んだだの、一般社会とは隔絶した単語が行き来致します。周囲のお客さんがチラチラこちらへ投げかける視線が実に痛うございます。
次第に自らが現役時代に起きた出来事に関して当時の川内の対処について、石倉がケチをつけ、俄かに議論が紛糾し、遂には激昂した川地がイクラを投げつけたりします。負けじとハマチで反撃する石倉。そんな二人に怒る星野。突貫小僧の異名をとる星野が参戦すれば収拾がつかないのは目に見えております。
その矢先、それまでニコニコと事の推移を見ておりました曽根若頭が穏やか且つ諭す様な口調で、一同を制しますと、さすがは幹事長の貫禄、皆、一様に矛を収めるのでありました。
その後、再び盃を重ねておりますと
「カシラ、ミナミへ飲みに行きましょうや」
と何事もなかったかの様に恐ろしい提案をする川地。この顔ぶれで行ったらとんでもない事になる事は明々白々であります。酔った赤い顔が一気に青くなる幹部衆。しかし曽根幹事長は
「まだ現役と打合せがあるんや、お前らだけで行って来い」
と観音様の様に有難い事を仰って下さいまして、OB諸氏を店に残し現役幹部衆を引き連れ事務所に戻ります。
ホッと胸をなで下ろす幹部に「ところでお前ら、社会に出たらコネというのが大事なんや」と何処かで聞いた様なお話をなさいます。「??」「これは昼間に聞いた話やないか…」
と思いつつも拝聴しておりますと、全く同じ展開で話が進行している事に気付きます。
案の定、全く同じ話を同じ時間をかけて話し尽くし、次の話へと進める曽根若頭。時計の針は11時を回っており、意を決した團長が思い切って「先輩そろそろ終電ですので…」と恐る恐る申し出てみます。「そんな時間か…よっしゃ、ワシが車で送ったるから時間は気にせんでええ」との予想外のお言葉。
夜が更け3時頃までみっちりと持ちネタ全8講話を談じきりご満悦の曽根先輩の車に疲労困憊の体で乗り込む幹部衆。その夜は幹部の中の一人の下宿に全員で泊まる事になりましたので、そちらまで畏れ多い事ではありますが、送って頂く事と相成り、開放感に包まれます。
ところが車が走り出しますと「お前ら、社会ではコネというのが大事なんや…」とまた最初に戻っているではありませんか!
しかし唯一の希望はこの講話が1時間かかるのに対し、目的地までは30分もかからないという事であります。
30分の辛抱と最後の気力を振り絞り「押忍」「そうなんでありますか」とすっかり習得してしまった抜群のタイミングで相槌を打ちます。
そうこうしているうちに無事目的地に到着、御礼を申し上げ失礼させて頂こうとする幹部に、全く変わらぬ調子で話の続きを談じる曽根幹事長。結局、夜が白み小鳥のさえずりが聞こえる朝方まで下宿の前に泊めた車の中で講話を聴く羽目になった次第でございます。
あのままミナミへ行かれた先輩方のお供をした方がよかったのか、未だに答えは出せておりません。
八代目甲南大學應援團OB会
広報委員会