『なんにせよ、自分以外の気持ちなんて―、人でも犬でも、分からない。これっばかりは、真実が分からない、永遠のミステリーよ。気持ち―心理が一番、この世の謎…』
『謎…、ミステリー…』
『いなくなってしまったら、何もしてあげられない。
永遠に声を―、聞く事が出来ない答と謎を抱えて、解決出来なくて、後悔して、もがいて、苦しんで。それでも遺された者は生きていくしかないから…。
頑張るしかない、から。
そう思えば、人生そのものがミステリー小説なのかも。そんな事を粋に考えて楽しむのも、気が紛れて心が安らいでいいかもしれないわね』
『…-』
『たかがワンコに大袈裟よね? でも、たかがワンコ…されど、ワンコなのよ。愛してしまえば“家族”だから。
-あら、もうこんな時間。話し込んでいてすっかり遅くなってしまったわ。
あと少しで終電の時間だけれど。
吉乃さん、ウチに泊まる? 主人は今夜は仕事で帰ってこないし。誰もいないから、気兼ねなく泊まってくれていいのよ。どうする? 何だったら、春海くんのお部屋-“吉乃写真展”に泊まって…』
『-いいえ! さすがにそれは図々しいので-、でも、おばさま。吉乃写真展、って…、ちょっと恥ずかしい…』
この後、連絡先交換して。私、早々に撤退させてもらって。車で駅まで送ってもらって-何とか終電に間に合って。お礼を言って、お別れして。
で、実家に戻って、お風呂に入って、グッスリ爆睡した、ってワケ。
⑨
だからね、と。時間は現在に戻り。
吉乃夏美は、圭樹春海の足首辺りにフンワリと頭を移動させ、屈託なく笑いかける。
「圭樹くんからの質問の答は、“ナツミちゃん”の心理が知りたかったから、-これが答。
どうして、誰も座っていなかったイスの周りを“ナツミちゃん”は寝転がって回っていたのか。寝転がる彼女の目には何が見えていたのか。ダイニングテーブルの木目? それとも天井? それとも-、
って感じで。彼女の立場になってみれば、その心理も自然と分かるかなあ、なんて思って」
ここで。吉乃夏美は一息つき。とても得意気な表情で、圭樹春海を見つめる。
「ついでに。
今夜の晩ご飯のお好み焼きは、おばさまのお話から、つい懐かしくなって食べたくなったから、作ってみようかなあ、なんて思いつき」
「…ふうん。なるほど。
もしかして、高校生活最後の頃、どうしようもないぐらい理不尽に俺を無視しまくってた申し訳なさから、過去の行動の謝罪をしようとして下さってるんですかね?」
「えっ? 圭樹くん? イヤだ、何ひねくれた事言ってるの? それって、もしかして、恨み節?
あの時はいろいろあって-、うん、とにかく。
しつこい男は嫌われますよ~」
「まあ、俺はモダン焼きが好きだから、どんな理由であろうと、作ってくれれば嬉しいばっかりだけどね。
で? 見つけ出せたワケ? “ナツミ”の答を。“その心”は?」
優しく問いかける恋人からの質問に、吉乃夏美は、断言は出来ないけれど。と断りを入れながら。
戸惑いつつ、答える。
「…“心”だから。目に見えないモノだから、推測しか出来ないけれど。多分、これなんじゃないかな、って」
「何?」
ここで。吉乃夏美はそれまで寝転がっていた態勢から上半身を起こすと。圭樹春海の耳元に唇を近づけ、コッソリと耳打ちする。
その答を聞いた、圭樹春海が。何だよ、それ、と笑い飛ばし。
「“幸せな景色”を見てたんじゃないのかな、って…、それ、どう言う事? だいたい、“幸せな景色”って何? もう目だって見えなくなってたかもしれないってのに」
だからよ、と吉乃夏美がニコリと笑い。圭樹春海の瞳に映る、自身を凝視する。
「目で見る必要は、もうなくなってたのよ。だって、ドラ息子の圭樹くんはずーっと帰ってなくて、もう現実の姿を見る事は出来なくなってたワケだから。
だったら、脳の中にある思い出-、蓄積されてる“幸せな景色”を眺めていたって全然おかしくないんじゃないかな、って。目が不自由になっていても、鼻は少しは利いていたかもしれない。その鼻で、ほんの少し残ってる圭樹くんの匂いを嗅ぎ分けて、圭樹くんのイスを探し当てて、で、脳の中の思い出と五感でリアルな景色を作り上げて、“幸せな景色”を見つめていたのかもしれない…。
-あっ、ちょっと待っててくれる? おばさまから預かった圭樹くんへのお土産、今、持ってくるから」
吉乃夏美は話題を変え。別の案件を告げるが早いか、圭樹春海の腕の中から、スルリと抜け出し。寝室へ向かい。
ほどなくして、小さな紙袋を手に戻ってくる。
これ、と差し出された紙袋を目の前にして。圭樹春海は訝しげに袋の口を開けると。
そこから出てきた、銀色の細い鎖状の輪にしばし、視線を奪われ。やがて、ため息をつき。
対面して座る吉乃夏美を、無言で見つめた後。
「…何で、吉乃さんが持ってんの? これ、首輪でしょ、“ナツミ”の?」
「圭樹くん、ゴメン。私、黙ってられなくなって、最後におばさまと連絡先交換する際に、圭樹くんと東京で再会した事、話したの。連絡も取ろうと思えば取れるから。大丈夫ですよ、って。
そしたら、おばさま、呆気にとられたみたいな顔した後、ちょっと待っててくれる? ってこの紙袋を持ってこられて。
あっ、ちなみに。圭樹くんとの関係-、再会した後、つき合ってるとか、同居してる、とかは話してないから。安心して。
ただ、あんなにケーキくんを心配してるおばさまを見て、黙ってる-沈黙って嘘をついてるのが、ツラくなってきて…」
別にいいよ、と圭樹春海がうなづき。
「どうせなら、同居してる事も話せば良かったのに。一気に、全てさ。その方が話も早いし」
「早い、って…、何の話が? ああ、圭樹くんの過去を私があまり知らずにつき合ってた事にようやく気づいて、その情けなさを反省する、って事?
…ゴメンね、私、何も分かってなくて。ケーキくんが学生時代、笑顔の裏で色々あったなんて思いつかなかったし、考えた事もなかったなんて…」
「-吉乃さん、」
「我ながら情けない…。全然知らなかったとは言え、中高生時代、気にさわる事だって口走ってたかもしれない…。もし、そんな事してたらゴメンね。
…あっ、おばさまから伝言。“首輪は、あのコの遺品だから大事に扱ってね”だって。
これ、圭樹くんが買ってあげたんだってね、“ナツミ”ちゃんに」
「…、オシャレさせてやりたいな、と思って。顔が何せ強面のイケメンだから。鎖状の首輪が似合うだろうな、って。で、買ってつけたら、予想通りカッコ良くてさ。ネックレスみたいで、買ってやった俺本人が、しばし見とれちゃったって言う-」
「そう。画像は? 持ってないの?」
「パソコンの中に入ってるから、また今度見せたげるよ。本当にカッコ良かったから…、んっ、待って。
って事は…」
圭樹春海は下唇を触りながら、しばらくの間、黙って首輪を天井のライトの下、すかしたりしながら眺めていたが。
やがて、何か面白い遊びを思いついた子供のように、両の口角を上げ微笑むと。とても得意気な顔で振り返り 。眼鏡をかけ直し、吉乃夏美を正面からまっすぐ見つめ。
あっけらかんと。こんな相談を持ちかけた。
「…ねえ、つけてみてよ。吉乃さん?」
「…えっ?」
「首輪(これ)。つけてみてよ。クールジェントルの“ナツミ”に似合ったんなら、同じ系列のあんたに似合わないワケないから。
ねっ? 四つん這いになって…、犬のカッコしてよ? その、細い首に…、首輪(チェーン)つけさせて」
「…? 圭樹くん、ワンコと私、同系列…一緒なの? 何だか嬉しいような悲しいような、ビミョーな感じ…。面白い冗談、ありがとう」
「そうそう。面白そうだし、楽しそうでしょ? ちょっとした余興に、どう?」
「余興、って…、言ってる事がよく分からないんですけど…。
ちょっと? やめてよ。何するの? 腕掴もうとしないで…」
「ノリとタイミングなんだよ、余興(こんなの)は。
強制したくないんだよね。小難しく考えずに、さっさと床に伏せたら? 体、柔らかいんだから、四つん這いになるのぐらい簡単でしょ?」、
「…」
「きっと、よく似合うと思うよ。この前の着物姿ぐらい…、いや。それ以上かも。伏せてるトコ、撮らせて。パソコンの中に入れて俺の宝物にするから。
伏せなよ。ほら、早く」
と、ここで。
圭樹春海が拝み倒すように合掌し、『頼むよ』と言わんばかりに笑顔でウィンクしながら。
続ける。
「…この通りだから。
聞こえてるんでしょ? ボンヤリ驚いた顔して突っ立ってないで。ねえ、吉乃さん?
-伏せろって言ってる…、一度でいいから伏せてくれ、って頭を下げてお願いしてるんだよ。ここまで頼んでも、俺の言う事、きけない?
こんなに頼み込んでるんだから…、ねっ?」、、
「-圭樹くん…?
えっ…、本気なの? 四つん這いになれ、なんて…冗談だよね?」
不意に。
吉乃夏美の現実-視界が歪み始め。その場の音-いたって楽しそうに笑う圭樹春海の声さえも-が遠のいていくのを止められず。
かわりに。
『なんにせよ、自分以外の気持ちなんて―、人でも犬でも、分からない。これっばかりは、真実が分からない、永遠のミステリーよ。気持ち―心理が一番、この世の謎…』
頭の中で。つい数日前別れたばかりの女の声が、何故か響き渡り。
吉乃夏美は。目尻を緩めた何とも朗らかな、明るいばかりの微笑を浮かべ、嬉々として鎖の両端を掴み装着しようと近づいてくる-通常なら全く恐怖など感じた事がない-圭樹春海に。この時ばかりは何故か、-妙な例えだが-冷たく仄暗(ほのぐら)い健全なる陽気さを感じ。
その初めて目にした、よく知る男のいつもと異なる横顔-謎めいた違和感-どこか秘密めいた欲が頭をもたげ、眺めている内に意識の奥底をボンヤリと惑わせ眩ませる怠惰な紫煙にも似た、退廃的かつ支配的空気-に、一瞬戸惑い。いつものように茶化して笑い飛ばす事が出来ず。それなのに何故だか、圭樹春海-正確にはその手に広げられた-持ち主の熱に浮かされたような態度-と反する、冴え冴えとした輝きを冷たく放つ鎖-から目が離せなくなり。
「…ほら。早く伏せて…?一緒に楽しもうよ」
“…何を?”
思いがけず。
危うく。疑問が途中まで声となって、弱々しく出かけ。
けれど、頭のどこか-おそらく、理性と呼ばれているのだろう辺り-で首輪はとりあえず、普通の人間が身にまとうべきものではない、と言う認識から、咄嗟に怯(ひる)み。けれど、それ-弱気を悟られるのは、生来の気持ちの強さが許さないので。
何食わぬ風情で断り、部屋から出よう-逃げよう-としたところ。
寸前のところで手首を掴まれ、背後から抱きすくめられる。
「-は~い。イエローカードだよ? 吉乃さん?」
「…」
「逃げるのは反則だよ?
スルーしてテキトーにやり過ごそうなんて、卑怯じゃねえ? あんたらしくないねえ。この前もだったけど、いつもあんたの言う通りにしてる…、たった一度でいいから、って哀願してる俺の要求を聞くのが、そんなに屈辱的?
遠く離れた場所まで、車飛ばして迎えに来るのが当たり前みたいに思ってる下僕に命令されるのが、同じ部屋にいるのさえガマン出来ないほど、イヤ?
たいした女王様だよ、あんたは」
「…そんなんじゃ、ない。当たり前、なんて、そんな事、考えた事、一度も-。違、う…、圭樹、くん…、私、ただ-」
“怖いの”
“あなたが”
“いつもと、違う-、どうして、あなたは、一体”
“…誰?”
「…何か言った? たまには俺の言う事、聞いてよ。ちょっとつけてくれれば終わる話なんだから。あんまり手前かけさせないで。…ねっ?」
耳たぶを甘噛みしながら囁く、優しげな口調とは裏腹な、その-逃げ出す事を許さない-力の強さに。吉乃夏美の中で、過去の-暗闇の中逃げ惑う山道での-出来事が、不意に強烈な勢いで脳裡を駆けめぐり、思い出され。
我知らず短い悲鳴を上げ、囲われた腕の中で、身をよじって抵抗していると。圭樹春海が何かを察したかのように、スルリと縛めを解いたので。
吉乃夏美は、大きく息をつき。ホッと安心し。乱れた額の髪を直しながら。
目の前の男を言葉もなく、見つめる。
男は、先ほどまでの軽快な主導ぶりもどこへやら。目の前の-恋人である-女の怯えぶりに申し訳なさそうに視線を伏せ、反省している風情でうなだれながら。
両腕を脇に下げたまま。おずおずと話しかける。
「…ゴメン」
「-」
「-怖がらせるつもりはなかったんだ。犬になって、なんて無茶な注文して…、ゴメン」
「い…い、いいの。圭樹くん。分かってくれれば…、別にそんな深刻に謝らなくても」
「そう、犬になるべきは、あんたじゃなかったのに…」
「そうそう、私じゃない…、えっ、って…?」
「犬になる…、鎖をつけてもらうべきは、俺だったね」
「…さっきから、何言ってるの、圭樹くん…? 何だかおかしいよ? いつもと違う…」
「-つけてみてよ、吉乃さん?」
全く予想だにしていなかった展開で。会話が最初に戻り。次に。
吉乃夏美を充分に脅かさせるセリフが、首輪を差し出されると同時に。
圭樹春海の口から放たれた。
「…俺に、その鎖、つけてよ。伏せをして、待ってるから。
俺の、この首に、あんたの手で鎖の首輪をつけて。俺をあんたの…」
犬に、して-。お願いだから…、-ねっ?
to be continued