俺、―今は、この世界にいたい、消えてなくなりたくない。この世界に―
未練タラタラなんだ。死んじゃったら、きっと化けて出て、綾さんの周囲にいる人間にジェラシー燃やして殺しちゃうぐらい―
藤木黎は、それだけ言うと。
一層強く力を込めて、綾を抱きしめた。
それ以上何の進展もない―ただ、唇を重ね合わせるだけのキスを伴う―抱擁が、当分、続き。
風が、ザワッと音をさせ、夜の寒気と暗闇を連れてくる頃。
藤木黎は、本田綾を抱きしめながら、その耳元で静かに囁く。
「…綾さん…」
「んっ…」
「ゴメン、ちょっと先に帰っててくれる? 俺も後からすぐ追っかけるから。まだ少し明るいし、帰り道、分かるよね?」
「えっ…?」
「街まで車飛ばして、ドラッグストアに行ってくる。ちょっと持ってくるの忘れてたから。あれがないと、困るよね? 長い夜を乗り切るのに―。
ねえ、綾さん? やっぱり、いるでしょ?」
黎の言葉に一瞬、首をかしげた綾だったが。すぐに彼の真意―言いたいのだろう事―を理解すると、トロンとした眼差しから、慌てて正気に戻り。
カアア、と頬を赤らめ、ニヤニヤと口元を歪める黎の腕の中から逃れる。
「…ド、ドラッグストアに行くなら、お菓子買ってきて。そう、黎くんの言う通り、夜、長いし、…多分、今夜もみんなでワイワイ騒ぐだろうから、そう、夜はみんなで、ゆっくり話ししよ」
などとよく分からない事をつぶやきながら、急ぎ足で立ち去る綾を見送りつつ。
途端に、憑き物が落ちたようにそれまでのニヤけた様相から、いつも通りの通常の冷静な表情に戻った藤木黎が取った行動は。
決して綾との長い夜を乗り切るための買い物に、ドラッグストアへ張り切って出かける事ではなく。
彼は物音を立てないように気をつけながら、黙って岩場から少し離れた箇所にある、子供の背丈ほどの草むらを眺めていたが、やおら一ヶ所を凝視すると、その伸び放題に伸びた雑草の中に忍び込み。
やがての事に。
何かを引きずりながら、岩の上に戻ってきた。
半時間ほど後。
ほどなくして宿に戻ってきた藤木黎ともども、おかみさん―と街から戻ってきたご主人と―から、ハトのヒナに関する感謝と謝罪を受けた本田綾は。
夕飯前ですけれど、ほんの気持ちでございます。どうぞ、お召し上がり下さい、と急遽、ご主人に頼んで購入させ持ち帰らせたらしい、どこかの高級店の和菓子を振る舞われ。
一旦は辞退したものの、口にしてくれなければ気がすまない、ここでお二人に遠慮され続けたら、他のお客様への夕飯の仕度にも支障が出る、と半ば脅しに近い態度で頼み続けるおかみさんの心遣いに、口をつけるしかなく。
しかし、もっちりとした生地とつぶあんの絶妙なあんばいに、小豆好きの綾の頬は落ちそうになり。ほどよいぬるさの緑茶と交互に口に運び、あっと言う間に平らげ。
それを見届けると、ご主人はホッとしたように、今日は忙しない日だなあ、とつぶやきながら夕飯の準備に取りかかり。
その後に続こうとしたおかみさんを、黙々と食べ続けていた黎が呼び止める。
優しげな面立ちの客人から、閉ざした唇の両端をニコリとキレイに上げた微笑みと、まっすぐな目線で笑いかけられながら。
さっきはありがとうございました。軍手とタオル借りっぱなしだったんで、お返ししときます、と差し出された二つの品を見て。
おかみさんが、頬に手を当て、大きく首をひねる。
「…お客様、軍手はうちのですが、このタオルは違いますね。うちのじゃあ、ありません」
「えっ? そんなハズないですよ。これは例の、―ハトのヒナを救い出す時の現場で渡されたタオルなんですから」
それでも違いますよ、とおかみさんが、小さく笑う。
「私がお客様にお渡ししたのは、軍手だけです。こんな緑色のタオルは知りません。
だいたい、うちにこんな厚手のフワフワした今治のみたいな高級タオルは置いておりませんよ。うちで扱ってるのは、白地の薄い、顔や体を拭きやすいタオルだけですから」
私が屋根の上で交換したタオルの事よ、と綾が小声で黎に耳打ちし。
その説明に納得したのか、それ以上追求しようとはしない黎に対し、おかみさんは夕飯の準備に取りかかるため、一礼し、場を後にし。
黎はそんなおかみさんの後ろ姿を見送りながら、誰に言う事なく、つぶやく。
「…じゃあ、あのタオルは誰のだったんだろうね」
「黎くん?」
「俺は確かに、あの現場で誰かから、あのタオルを渡されたんだ。どうやって助けようか考えてる時に、パッと手に握らされて…。バタバタしてたから、それが誰だったか、確かめる暇はなかったけど。
でも、この館内に、誰もあの緑色のタオルを探してる人間は、いない。あんな高級そうなタオル、戻ってこなけりゃ今頃大慌てで探してるだろうし、俺が持ってるのを知ってれば、取りに来るだろうし…。
あっ、そうだ、綾さん」
これ、何だと思う? と藤木黎が綾の 目の前に、親指と人差し指でつまんだ、小さな丸い―銀色の―玉を差し出す。
そして、一向に分からず首をひねるばかりの綾に向かい、笑いかける。
「分かんねーなら、いいよ。そうだね、ちょっと一人っ子の綾さんには難しい質問だったかな?」
と流す、恋人藤木黎の発言にやはり。
綾は首をひねり続けるばかりだった。
Ⅳ
その―二日目の―伯母家族と過ごす―最後の夜は、綾の予想に反し、いたって静寂かつ、穏やかに過ぎ。
雅志と渉の兄弟を除く全員で、夜の食事―オリーブオイル等を駆使した、宿自慢の野菜料理と魚や肉―に、前夜同様、綾と黎の部屋で舌鼓を打っている内に、デザートまで平らげ。
今夜もこのまま夜のトークタイムに突入するのだろう、と綾がのんびり構えていると。
「今夜は、みんな自分達の部屋でゆっくり寝ましょう」
と伯母の柏原蛍子が提案してきた。
「綾ちゃん、実はね、雅志と渉、二人とも本格的に風邪を引いちゃったみたいで。お宿の体温計借りて測ったら、結構熱があって…。ご飯もあんまり欲しくないらしくて、おかみさんが好意から作ってくれたおかゆ、やっと食べれたぐらいで…。おバカは風邪引かないって言うのに、どうしたのかしらね、二人とも。
―ああ、様子は見に行かなくていいから。風邪がうつったら大変だからね。気にしないで。気持ちだけ、ありがたく受け取っとくわ。
とにかく、だから、今夜は別々で休みましょ。私達この後、先にお風呂いただくけど、いいわよね?」
そう言った後、娘の瞳子ともども自室に戻りかけ、思い出したように、おやすみの挨拶を交わす、黎と蛍子を尻目に。
綾は、ぼんやりと考える。
雅志くんと渉くん―、風邪引いちゃったんだ。おばちゃんは、気にしなくていいみたいに言ってたけと…、大丈夫なのかな? そう言えば、ハト騒動があった後、二人とも元気がなくなってた…。ショボくれてて体調悪そうで、しんどそうだった。あの時から、風邪が悪化して、熱があったのかもしれない。
かわいそう…。
おばちゃん、今夜は寝ずの看病するのかも。色々憎まれ口叩いてても、子供思いの優しい人だし。
―あれ? ちょっと、待って。
って事は―、今夜は、黎くんと私…、二人っきり―。
不意に胸が高鳴り、胃がキリキリと痛むような緊張感に襲われながら。
綾は一人、風呂の湯につかり、ホウっとタメ息をつきつつ、少し前の光景を思い出す。
伯母とイトコが退出して、奇妙にシンと静まり返った、二人っきりになった部屋の中。
『―綾さん』
と呼びかけられ。綾がビクリと肩をすぼませながら振り返ると、黎がニッコリと笑って話しかけてきた。
『伯母さんと瞳子ちゃんが出たら、先に風呂入っといでよ。俺、その間にちょっとやりたい事あっから』
と、すすめられるまま。
現在、綾は一人で湯につかっているのだが。
ふと、思い出すのは、黎がエアガンらしき物で襲われた、と言う事実で。綾はそれが頭から離れず。と言うか。
『―綾さん! 伏せて!』
あの折―ハトのヒナを救うために屋根の近くにいた時―の、日頃のゆったりした彼の様子からは考えられないほどの、慌てた口ぶりと緊迫した声色から。
狙われたのは、どうやら黎、と言うより、綾自身だったのではないか、と思われ。
エアガンなどの的にされるほど、人の妬みや恨みを買った自覚は、ない。だいたい、今回の旅行からして、初めて訪れた場所なのだ。名前どころか、顔も素性も何も分からない、見知らぬ人ばかりの土地。
そこで襲われる理由など、さらになく。
余計に自分達―恋人の黎と―が、狙われた理由など、推測の仕様もなく。思い当たる事も皆無で。
それとも―、たまたま自分達がそこにいて、たまたま襲われた? 刹那的に誰でもいいから、手当たり次第、―たまたま、それ―エアガンを使いたかった場面に出くわしたに過ぎない?
そんなのだったら、ひどすぎる…、と綾はうなだれ。
一体、誰が何のために、―恋人の推測が正しいなら―エアガンなどを使って自分達を傷つけようとしたのか。
分からない―、全然分からない…。
でも―、一つだけハッキリ分かってる事は―。
堂々巡りから抜け出せず、それでも湯にのぼせ上がる直前に風呂から出て。
納得出来ない思いの綾が、汗を拭った浴衣姿で部屋に戻ると。
そこには、既に浴衣に着替え、敷かれた布団に横たわりテレビを見てゲラゲラ笑っている―いたって平和な―藤木黎の姿があり。
綾は杞憂と現実のはざまで、気が抜けたように、呆然とし。一瞬、その呑気な様子に何か言いかけたが静かに呑み込むと、黙って黎の傍に座り。
「あっ、おかえり。綾さん」と迎えられ、そして。
すっかり―それどころではなかったので―、風呂に入っている途中から忘れてしまっていた現実に引き戻される言葉をかけられた。
「ゆっくり、つかった? 今夜は一人だったから、ノンビリ出来たでしょ? それと―、キレイになった?」
「?」
「俺らの記念すべきファーストタイムのために…、ちゃんとキレイになってくれた?」
途端に。
綾の顔が真っ赤になり。そこには嬉しいような逃げ出したいような緊張と歓喜―気まずさ―が交互に現れ。
それでなくとも分かりやすい綾の顔色が、―赤くなったり青くなったり―忙しなく変化するのを目の当たりにして、黎がじいっと凝視しながら。
「…そのあからさまに挙動不審な、気まずい表情(かお)…。
まさか、今夜、つか、この旅行の意味、すっかり忘れてた?」
まさか、と綾が慌てて言い繕う。
「…私が、黎くんとの大切な行事を、忘れるワケないじゃない」
「―行事、って…、何か学校やサークルみてえ。カレンダーか歳時記みてえだよ」
「れ、黎くん、あ~っ、行事じゃなくて…。えっとね、催し事? …これもちょっと違うね。じゃあ、イベント―」
「イベント、ね…。さらに、テーマから遠のいた気がすんだけど」
「…えっと、行動…、そう、そうよ、黎くんとの彼氏彼女としての、行動! アクション!」
アクションって―、何それ? すげえ強そう。綾さん、アクロバットで健康的な、スポーツみたいなHが好きなワケ? なかなかマニアックだね、やっぱり人生経験豊富な年上の女は言う事が違うよね―、
と、黎に吹き出され。
綾は赤い顔をしたまま、うなだれ、息をつく。
「…さっきのショックで、上手い例え…、言葉が出ないの」
「エアガン騒動の事? それなら確かに俺もショックだったよ。でも、俺との事、どーでもよくなっちゃう、ってのは、何か違うんじゃね?」
「―…そんなんじゃない」
そうじゃないの、と綾がもう一度繰り返す。
to be continued